アニメ夜話で語られる前に、トリトンについて書こう ラスト [富野監督関係]
昨日の最後に紹介しましたが、今日の冒頭にもう1度、ブログを紹介しておきます。
手塚ファン、アニメ版トリトンファンは必読の、資料的価値が高いブログです。
http://blog.goo.ne.jp/mcsammy/e/74eae7ddff12129853ef34561a80c477
http://blog.goo.ne.jp/mcsammy/e/adeec845f339cd2dd51e0b7b6e1946e0
なお、上記のブログを書かれている真佐美さんはこんな経歴の方です。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090112-00000559-san-ent
以下の文章は、真佐美さんのサイトを読んでいるという前提で進んでいきます。
まあ面倒くさがり屋さんにも、読めるようには書くつもりですが。
でも、今回は長いよ。
長文が読めない残念な人は諦めて下さい。
さて、大型書店に行くと手塚治虫全集がずらりと並んでいますが、『海のトリトン』(いつの間に漫画の方も、「青」から「海」になったんだ)の後書きには、アニメ版は私に関係ありません、という主旨の手塚の後書きがあります。
ササキバラ・ゴウさんが大塚英志さんとの共著『教養としての<まんが・アニメ>』の中でこの1文に触れていて、
たぶん、当時手塚のもとには「海のトリトン」に関して多くのファンレターが寄せられていたのだろう。しかもその多くは、手塚のまんがではなく、アニメの内容に対するものだったに違いない。
(中略)
たぶん、見当違いの褒め言葉をたくさん受けたであろう手塚のとまどいが、このコメントには感じられる。
と書いてあります。
しかし真佐美さんのブログを読んだ後だと、あのコメントが「とまどい」ではなく、怨念と怒りが籠った短文なのだ、と読めてきます。
話を戻しましょう。『海のトリトン』で、富野ファンとして最も着目すべき点は、「手塚原作を大幅に改変したこと」それ自体にある、というお話です。
ここからはなるべく、どの資料・記述も疑いながら、なおかつ「ここは信じられるだろう」という箇所を探しつつ、論を進めていきます。
アニメの初期段階では、企画に手塚が参加していたことは、ほぼ確実です。前述した手塚の後書きと真佐美さんのブログ、それに後に引用している富野の記事もあります。
そして富野が元虫プロ社員だったことを考えれば、手塚の意思に沿う形で富野が作業を進めていた、という真佐美さんの記事も素直に読めます。
さて、途中まで作業を進めていたが、真佐美さんによれば、西崎氏が手塚漫画の権利を全て奪ってしまい、虫プロではアニメをつくることが出来なくなってしまった。
この真佐美さんの記述は、どこまで信じて良いものか? この時期に関する富野の証言は、あの饒舌な富野にしては、非常に淡白です。
富野ファン必携の2冊から、その部分の記述を抜いてみましょう。
『だから僕は…』
以前に虫プロで作ろうとした十分ほどのフィルムはあったのだが、虫プロ内部にいろいろな問題があって、製作をスタッフルームが請け負うことになったのだという。そのときの虫プロの事情は知らない。
(中略)
「テレビ版でやるときは、オリジナルをおこすしかない」
これは鈴木さんの主張であり、やや遅れて制作に参加した西崎義展プロデューサーの意見でもあった。
さらに、製作条件として虫プロ関係のアニメーターはつかってはならないという暗黙の約束ごとがあったりして、手塚先生と相談する機会さえあたえられなかった。もしあたえられたとしたら、あのような形でのTV版の『海のトリトン』はなかっただろう(筆者註・ここの記述は、真佐美さんのブログと相反していますね)。
『富野由悠季全仕事』
―― ところでこの当時(筆者註・71年)、西崎義展さんは虫プロにいらっしゃったのですか。
富野 そういう社内事情は知りません。
(中略)
富野 初めは手塚先生が手塚プロで作るつもりでいて、虫プロに下請けを出すという話もありましたがそれもなくなった。そして虫プロ商事が虫プロと分派したのか、自活していかなくてはいけないということで『海のトリトン』の企画を引き受けたんだけど、結局虫プロ商事も潰れて、スタッフルームだけが残った。で、最終的にプロデュース権というかマルC権を西崎さんが買って、手塚先生から『トリトン』をひっぺがした。
『全仕事』の方は、真佐美さんの記述に近いですね。
ただこの言いようだと、西崎氏が『トリトン』の権利だけを買ったとも誤解されますが。
富野は当然、自分の漫画の権利を失ってしまった手塚の心中がいかほどのものか、想像できたのではないでしょうか?
真佐美さんのブログによると、西崎氏のやり方に反発して、トリトンの仕事をおりたスタッフもいたようです。しかし富野はチーフディレクターを降りず、そして物語のラストを大幅に改変しました。
富野ファンのぼくが着目するのは、まさに「富野はチーフディレクターを降りず、そして物語のラストを大幅に改変した」点です。
ぼくは何も、「手塚を裏切る形になってまで、作品をベストの形にしようとした」などと美談として語るつもりも、また逆に悪く書くつもりもありません。
もっと生活に密着した問題として、着目したのです。
つまりこの時期すでに、富野はフリーのコンテマンだったのです。そして今のようなサンライズとの関係が構築されていたわけではありません。
フリーにとって安定した仕事先の確保は、もっとも重要なことです。
単純に言ってしまえばフリーの富野には、手塚をとるか、西崎をとるか、という二択がここで提示されました。
富野は『トリトン』の前年に、手塚プロの『ふしぎなメルモ』の仕事も請けています。
だから今後も、手塚プロから仕事が来る可能性だって、当然あります。
しかし西崎氏と手塚の関係を考えれば、トリトンの仕事を続けていれば、手塚プロから仕事が来るとは考えづらいでしょう。
はたして富野はトリトンの仕事を続け、ラストを(おそらく手塚の意向には合わない)形に変えました。
西崎氏と共にトリトンの仕事を続けることを覚悟した時点で、富野の中で手塚との関係が切れたことは、まず間違いないと思います。
クリエイターには転機となる作品があって、富野にとってはやはり、アニメ演出を手がけるきっかけを与えてくれた手塚との縁を切る意気込みで挑んだ『海のトリトン』が最初のターニング・ポイントとなる作品だったのです。
蛇足。
まだ無名だった唐沢俊一がきっかけとなった、アニメ誌上での「ガンダム論争」で、手塚は富野擁護の発言をしたそうですから(文体が伝聞なのは、ぼくは実際にこの論争を読んでいないからです)、少なくとも手塚は、「名前を出すのも嫌」ほどには富野を嫌っていなかったのでしょうね。
手塚ファン、アニメ版トリトンファンは必読の、資料的価値が高いブログです。
http://blog.goo.ne.jp/mcsammy/e/74eae7ddff12129853ef34561a80c477
http://blog.goo.ne.jp/mcsammy/e/adeec845f339cd2dd51e0b7b6e1946e0
なお、上記のブログを書かれている真佐美さんはこんな経歴の方です。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090112-00000559-san-ent
以下の文章は、真佐美さんのサイトを読んでいるという前提で進んでいきます。
まあ面倒くさがり屋さんにも、読めるようには書くつもりですが。
でも、今回は長いよ。
長文が読めない残念な人は諦めて下さい。
さて、大型書店に行くと手塚治虫全集がずらりと並んでいますが、『海のトリトン』(いつの間に漫画の方も、「青」から「海」になったんだ)の後書きには、アニメ版は私に関係ありません、という主旨の手塚の後書きがあります。
ササキバラ・ゴウさんが大塚英志さんとの共著『教養としての<まんが・アニメ>』の中でこの1文に触れていて、
たぶん、当時手塚のもとには「海のトリトン」に関して多くのファンレターが寄せられていたのだろう。しかもその多くは、手塚のまんがではなく、アニメの内容に対するものだったに違いない。
(中略)
たぶん、見当違いの褒め言葉をたくさん受けたであろう手塚のとまどいが、このコメントには感じられる。
と書いてあります。
しかし真佐美さんのブログを読んだ後だと、あのコメントが「とまどい」ではなく、怨念と怒りが籠った短文なのだ、と読めてきます。
話を戻しましょう。『海のトリトン』で、富野ファンとして最も着目すべき点は、「手塚原作を大幅に改変したこと」それ自体にある、というお話です。
ここからはなるべく、どの資料・記述も疑いながら、なおかつ「ここは信じられるだろう」という箇所を探しつつ、論を進めていきます。
アニメの初期段階では、企画に手塚が参加していたことは、ほぼ確実です。前述した手塚の後書きと真佐美さんのブログ、それに後に引用している富野の記事もあります。
そして富野が元虫プロ社員だったことを考えれば、手塚の意思に沿う形で富野が作業を進めていた、という真佐美さんの記事も素直に読めます。
さて、途中まで作業を進めていたが、真佐美さんによれば、西崎氏が手塚漫画の権利を全て奪ってしまい、虫プロではアニメをつくることが出来なくなってしまった。
この真佐美さんの記述は、どこまで信じて良いものか? この時期に関する富野の証言は、あの饒舌な富野にしては、非常に淡白です。
富野ファン必携の2冊から、その部分の記述を抜いてみましょう。
『だから僕は…』
以前に虫プロで作ろうとした十分ほどのフィルムはあったのだが、虫プロ内部にいろいろな問題があって、製作をスタッフルームが請け負うことになったのだという。そのときの虫プロの事情は知らない。
(中略)
「テレビ版でやるときは、オリジナルをおこすしかない」
これは鈴木さんの主張であり、やや遅れて制作に参加した西崎義展プロデューサーの意見でもあった。
さらに、製作条件として虫プロ関係のアニメーターはつかってはならないという暗黙の約束ごとがあったりして、手塚先生と相談する機会さえあたえられなかった。もしあたえられたとしたら、あのような形でのTV版の『海のトリトン』はなかっただろう(筆者註・ここの記述は、真佐美さんのブログと相反していますね)。
『富野由悠季全仕事』
―― ところでこの当時(筆者註・71年)、西崎義展さんは虫プロにいらっしゃったのですか。
富野 そういう社内事情は知りません。
(中略)
富野 初めは手塚先生が手塚プロで作るつもりでいて、虫プロに下請けを出すという話もありましたがそれもなくなった。そして虫プロ商事が虫プロと分派したのか、自活していかなくてはいけないということで『海のトリトン』の企画を引き受けたんだけど、結局虫プロ商事も潰れて、スタッフルームだけが残った。で、最終的にプロデュース権というかマルC権を西崎さんが買って、手塚先生から『トリトン』をひっぺがした。
『全仕事』の方は、真佐美さんの記述に近いですね。
ただこの言いようだと、西崎氏が『トリトン』の権利だけを買ったとも誤解されますが。
富野は当然、自分の漫画の権利を失ってしまった手塚の心中がいかほどのものか、想像できたのではないでしょうか?
真佐美さんのブログによると、西崎氏のやり方に反発して、トリトンの仕事をおりたスタッフもいたようです。しかし富野はチーフディレクターを降りず、そして物語のラストを大幅に改変しました。
富野ファンのぼくが着目するのは、まさに「富野はチーフディレクターを降りず、そして物語のラストを大幅に改変した」点です。
ぼくは何も、「手塚を裏切る形になってまで、作品をベストの形にしようとした」などと美談として語るつもりも、また逆に悪く書くつもりもありません。
もっと生活に密着した問題として、着目したのです。
つまりこの時期すでに、富野はフリーのコンテマンだったのです。そして今のようなサンライズとの関係が構築されていたわけではありません。
フリーにとって安定した仕事先の確保は、もっとも重要なことです。
単純に言ってしまえばフリーの富野には、手塚をとるか、西崎をとるか、という二択がここで提示されました。
富野は『トリトン』の前年に、手塚プロの『ふしぎなメルモ』の仕事も請けています。
だから今後も、手塚プロから仕事が来る可能性だって、当然あります。
しかし西崎氏と手塚の関係を考えれば、トリトンの仕事を続けていれば、手塚プロから仕事が来るとは考えづらいでしょう。
はたして富野はトリトンの仕事を続け、ラストを(おそらく手塚の意向には合わない)形に変えました。
西崎氏と共にトリトンの仕事を続けることを覚悟した時点で、富野の中で手塚との関係が切れたことは、まず間違いないと思います。
クリエイターには転機となる作品があって、富野にとってはやはり、アニメ演出を手がけるきっかけを与えてくれた手塚との縁を切る意気込みで挑んだ『海のトリトン』が最初のターニング・ポイントとなる作品だったのです。
蛇足。
まだ無名だった唐沢俊一がきっかけとなった、アニメ誌上での「ガンダム論争」で、手塚は富野擁護の発言をしたそうですから(文体が伝聞なのは、ぼくは実際にこの論争を読んでいないからです)、少なくとも手塚は、「名前を出すのも嫌」ほどには富野を嫌っていなかったのでしょうね。
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