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さらうアニメ史 日本でのアニメの誕生~2010年 [アニメ周辺・時事]





 さて今回は、日本アニメ史をおさらいしてみよう、という記事です。

 自分の好きな文化の歴史を知ることは読者の皆さんにも益があるだろうし、ましてやこんなアニメブログを書いているぼく自身にとっては、最低限のエチケットでもあるでしょう。

 正直な話、今まで当ブログで書いてきた500本近い記事の中で、一番執筆に時間がかかり、そしておそらく訪れていただいた皆様にとっては一番有益な記事になるのではないかと思います。

 これを読めば表層的なことは大体OK、これ以上深く知りたければ専門の書籍なりをご購入下さい、といった塩梅です。

 日本アニメ史を振り返ると言っても、ダラダラと歴史を書いたところで・読んで下さる方は退屈だろうし、何よりぼく自身がツマらないので、作品を紹介していく形式にしました。
 小林信彦さんの『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』が、優れたハリウッド史・邦画史本になっていることから得た発想です。

 では以下の点に留意して、ごゆるりとお楽しみ下さい。


 1、ここに紹介しているアニメは、「日本アニメ史上で重要な意味を持つ作品」であり、イコール「面白い作品」でもなければ、「ぼくが好きな作品」でもありません。面白い、ツマらないは関係ないリストアップなので、そこのところ誤解なきよう。

 2、当たり前のことですが、ぼくは今まで未見の作品を紹介したり批評(偉そう)したことはありません。でも今回だけは、未見の作品も多数取り上げています。
 今から白黒アニメを全話見ろ、そして選択しろというのは酷です。ここら辺に、TVアニメが「教養」になり得ない最大の原因が潜んでいると思っていますが、それはまた別の話。

 3、記事の確度を上げるため、wikipediaは参考にしていません。

 4、敬称は略しています。エラソーですいません。

 5、映画より、TVアニメに比重を置きました。1つは、ぼく自身の知識の問題。もう1つは、アニメ映画の歴史を振り返ったり、ベスト〇を紹介する書籍は近年も出ているからです。

 6、今回の記事を書くにあたり、底本にした書籍が1冊あります。また大変参考になったPDF資料が2種類、データベースが1サイトあります。それらは記事を全てアップし終えた後、別記事を設けて明示します。
 これ以外の参考サイトは、その都度リンクによって明示するようにしています。


 なお記事タイトルの「さらう」は、三味線や琴の稽古なんかで使う、「その節をもう1回さらってごらん」の「さらう」です。
 では、仕上げをごろうじろ。




1917年
1、『芋川椋三玄関番之巻』
 演出作画は下川凹天(へこてん)。
 東京・浅草キネマ倶楽部で公開された日本初の国産アニメーション。参照

2、『猿と蟹(サルとカニの合戦)』
 北山清太郎企画・演出作画。日本で2番目のアニメーション。

3、『塙凹内名刀之巻』別題(『なまくら刀』)
 幸内純一作画・演出。日本で3番目のアニメーション。2007年に大阪でフィルムが発見され、国立フィルムセンターでデジタル復元、2008年に一般公開された

 
 この年が、日本の「アニメ」が誕生した年。現在は2013年だから、つまり4年後には、日本のアニメは100歳を迎えることになる。

 驚くべきは、同年にアニメを発表した上記の3人は、互いに作っている事を全く知らずに、数ヵ月の差で作品を公表したということ。

 

1928年
 アメリカで『蒸気船ウィリー』制作。「音と映像が合っている」ことが評判になり、ディズニーが時代のトップに立った。



1932年
 アメリカではカラーの時代到来。ディズニーがシリー・ シンフォニーシリーズのカラー映画『花と木』制作。



1933年
4、『力と女の世の中』
 松竹による日本初の本格的なトーキーアニメ映画。全面的にセルを使用した最初のアニメ作品。監督は「日本のアニメーションの父」政岡憲三。参照



1943年
5、『くもとちゅうりっぷ』

 政岡憲三の代表作。戦中の制作にも関わらず、それを感じさせない詩情あふれる作品。そのせいかは不明だが、傑出の出来にも関わらず文部省推薦を得られなかった。

6、『桃太郎の海鷲』 
 戦時中に公開された、日本初の国産長編アニメ。政府の命による国策アニメだった。参照



1945年
7、『桃太郎海の神兵』

 政岡憲三に師事した、瀬尾光世の制作。海軍省の依頼を受けて作られた作品だった。参照
 手塚治虫が「日本の漫画映画もここまできたかと思って、涙をポロポロ流した」と述懐している。



1947年
8、『すて猫トラちゃん』

 政岡憲三と山本善次郎が創設した日本動画社(ニチドウ)の第一作。参照
 上映時間は24分だが、戦後間もない時代にフルアニメでオペレッタ形式のアニメを作った。



 
 この頃の映画(実写)では、エノケンとロッパの『新馬鹿時代』(1947年)やエンタツ・アチャコの『タヌキ紳士登場』(1948年)に、1部アニメーションが見られる。

 もっともハリウッドでは、プレストン・スタージェスが『レディ・イヴ』(1941年)のオープニングですでにアニメを使って見せている。
 何よりも1937年(!)には、ディズニー初、そして世界初のカラー長編アニメーション映画『白雪姫』が公開されている。日本での公開は1950年だが、戦時中に見た徳川夢声は文化的な差を感じ、日本の戦争敗北を確信したそうだ。



1950年前後
 「アニメーション」という言葉が業界で浸透?




1956年
 7月に、東映の大川博社長が「東洋のディズニー」を目指して東映動画設立。
 黄色人種が出る実写の邦画は欧米では売りにくいので、アニメを作って世界にソフトを売ろうとする側面もあった。

 この年までの東映動画の流れは、以下の通り。
 1947年株式会社日本動画社設立→翌年に日本動画株式会社と改称→1952年に東宝図解映画と合併して日動映画株式会社発足→1956年東映株式会社が同社を買収、東映動画株式会社誕生(1998年に東映アニメーション株式会社に改称)。



1958年
 この年、「最初のTVアニメ」だと思われる『もぐらのアバンチュール』が制作された。カラーTV用のテスト作品(放送もされている)で、2013年にフィルムが発見された

9、『白蛇伝』
 日本初のカラー長編アニメ映画。東映動画による有名な映画だが、大きな力になったのは前記したニチドウだった(経営難から東映傘下になっていた)



 

 日本初(実は2作目)の連続TVアニメ『鉄腕アトム』が生まれるまで、まだ15年ほどある。
 しかしアニメは、その前にTVに進出している。それが単発アニメ『もぐらのアバンチュール』『新しい動画 3つのはなし』であり、そしてCMで使われたアニメである。
 森永ミルクキャラメルのCM(おとぎプロ制作)は1954年、カステラで有名な文明堂のCM「南蛮渡来のカステラ」は1950年代(後半?)、「トリスを飲んでハワイに行こう」のキャッチコピーで有名なサントリーのCMは1961年の放送。 (全てリンク先で見られます)




1960年
 個人アニメーション作家による「アニメーション三人の会」スタート。
 久里洋二、サントリーでコマーシャルを作っていた柳原良平、イラストレーターの真鍋博が青山の草月ホールで始めた作品発表会。第6回まで続き、手塚も積極的に参加していた。

 国産初の「30分」TVアニメ『新しい動画 3つのはなし』が、この年に作られている。参考。日本のTVでクロマキー(合成技術)を初めて使った番組ともされている。なお、リンク先では「国産初のTVアニメ番組」と書かれているが、これは間違い。


1961年
10、『インスタントヒストリー』
 日本初のテレビアニメシリーズ。その日に起きた歴史的出来事をアニメにした1分間の番組。フジテレビで毎日放映されていた。参照
 制作したのは、『フクちゃん』で著名な漫画家横山隆一が創設した「おとぎプロ」。同プロは、ラーメン大好き小池さんのモデルとしても有名な鈴木伸一や、山本暎一を輩出している。



1962年
 株式会社竜の子プロダクション設立。
 挿し絵画家・漫画家の吉田竜夫が、弟の健二、豊治(九里一平)と共に仕事場として設立したのが起源。
 翌年末、東映動画からの仕事依頼を機に、アニメ制作に関わり始める。1964年夏からアニメ制作会社として本格的にスタートした。

 虫プロダクション設立。前年に開設した手塚治虫プロダクション動画部(手塚の自宅内に開いた)が起源。1962年1月に改称、4月スタジオ社屋完成、12月株式会社化。
 1973年倒産、1977年に虫プロダクション株式会社として再生。

 現在の目から見ると、虫プロの設立、そして『鉄腕アトム』の誕生は、日本アニメに個性をもたらすことになるリミテッドアニメの将来における隆盛を意味する。
 ただし手塚自身はディズニーファンなのだから、本来はフルアニメーション主義者であったことを留意する必要があるだろう。

 もっとも宮崎駿によると、手塚は「フルアニメーションの意味を知らない」となるのだが…

11、『ある街角の物語』
 手塚治虫プロダクション動画部(虫プロの前身)による第1作。最初から一般上映の予定がない作品。手塚はこれ以前にも、東映動画の第3作『西遊記』の手伝いでアニメに関わっている。



1963年
12、『鉄腕アトム』
 元旦に放送開始。ここから物語性のある、日本のTVアニメシリーズが始まった。制作費は赤字でも、視聴率は30~40%、スポンサードした明治のお菓子が売れまくった。
 作画枚数が少なくても表現力を増すために、スタッフは小刻みなカッティングやアップショットを多用し、また全面透過光やハーモニーなど様々な技法に挑戦した。

 『アトム』の商業的成功をきっかけに、発表本数が限られる映画しか制作せず、人的に「上がつかえていた」東映動画をはじめ、様々な会社がTVアニメ制作に乗り出す。

13、『エイトマン』
 原作者の平井和正をはじめ、豊田有恒、辻真先など豪華な顔ぶれが脚本を担当。
 SF作家達の良質な脚本が、創世記の日本TVアニメを支えた。半村良がタイトルだけを書いて逃げた、という面白い伝説もある。一方、敵組織の背景などを描けない実写畑の脚本家はおろされた。

 ちなみにこの年には、エイケンが小島功作品をアニメ化した『仙人部落』も放映されている。当初の放映時間は午後11時40分から。つまり『アトム』と同じ年、すでに深夜アニメーションがあったということ。当然、日本初の深夜アニメ、そして初の大人向けアニメ。

 また、TVアニメを再編集した劇場版が早くも登場している(『狼少年ケン』)。



1964年
 東京ムービー設立。TBSが新作アニメを作ろうとしたが、制作能力のある会社が別の仕事で埋まっていたため、『ひょっこりひょうたん島』を作った人形劇団「ひとみ座」に働きかけて急遽立ち上げた。
 「人形劇を作ったんだからアニメもイケるだろう」ということであり、この考えは、現在では理解の範疇外。
 その後吸収合併され、2000年からは㈱トムス・エンタテインメント(『アンパンマン』『名探偵コナン』)。



1965年
 Aプロダクション設立(シンエイ動画株式会社の公式HP表記では「エイプロダクション」)。東京ムービーの専属協力会社として作られた。最初の『ルパン三世』『ど根性ガエル』など。
 1976年に有限会社エイプロダクションをシンエイ動画株式会社に改組。

14、『ジャングル大帝』
 日本初のカラーTVアニメ。虫プロ内の主力スタッフがこの作品に回された。

15、『オバケのQ太郎』
 『鉄腕アトム』の影響で、TVアニメはしばらくSF作品が続いた。
 各社とも第1作目はSFである。TCJ(エイケン)が『鉄人28号』、東京ムービーが手塚原作の『ビッグX』、タツノコが『宇宙エース』。劇場映画を作っていた東映動画だけは『狼少年ケン』だったが、3作目でSF『宇宙パトロール・ホッパ』(1965年)を作った。
 そんなSF一辺倒の風潮に変化をもたらしたのが、東京ムービー制作の本作。演出のリーダーシップをとっていたのは長浜忠夫。

 この年には、日本初の1時間スペシャルアニメ『新宝島』も放送されている。



1966年
16、『サイボーグ009』(劇場版第1作)
 人件費削減のために、トレースに初めてゼロックスが取り入れられた。ゼロックスは鉛筆で描いた線をそのままセル画にコピーでき、それまでは不可能だった緻密な描き込みが可能になった。ゼロックスの威力はその後、『空飛ぶゆうれい船』で発揮されることになる
 1968年に東映動画がTVシリーズの『サイボーグ009』を作ったのは、放映枠が空いて急遽何かを制作する必要が生じた時に、同社のスタッフが009のキャラクターに馴染んでいたからである。

17、『魔法使いサリー』
 少女漫画でデビューした横山光輝原作。完全な「少女向けアニメ」ではなかったが、この作品と、続く『ひみつのアッコちゃん』の成功により、魔女っ子ものが継続的に作られることになる。その血脈は制作会社もテイストも変わりながら、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)まで続いている。



1967年
 アートフレッシュ設立。杉井ギサブローが、出崎統などと虫プロから独立して作った。労働環境が苛酷な虫プロでは、後進を育てることが出来ないとの判断からだった。参照。 しかし『鉄腕アトム』『悟空の大冒険』を手掛けるなど、円満な独立である。

 この年は、現在まで続く海外との共同制作が始まった年でもある。



1968年
18、『太陽の王子ホルスの大冒険』
 東映動画。「より良いアニメを作りたい」という組合の要求が通った結果、制作された映画。大塚康生、高畑勲、宮崎駿などが参加した。
 作品への評価は高かったが、興行成績は振るわず、予算とスケジュールの大幅超過もあって会社と組合の有名な労働争議に発展していく。

19、『巨人の星』
 劇画初のアニメ化。製作は東京ムービー、実制作の中核はAプロダクション。それまでSFがリードしていた日本アニメに、「スポ魂」が登場する。
 60年代後半~70年代中盤はスポ魂、80年代はラブコメ。この時代、漫画とアニメのブームはリンクしている。
 手塚が梶原一騎原作の漫画を手に、「何が面白いのか教えて下さい」と泣きながらアシスタントに詰問したという都市伝説があるが、アニメの潮流も『アトム』放映から10年もたたずに変わりつつあった。
 その証左の1つとして、虫プロはこの年、非手塚作品のアニメ化に乗り出した。


1969年
 株式会社エイケン設立。 前身は1952年に梁瀬次郎が創立した日本テレビジョン株式会社(TCJ)。翌年にCMアニメ制作を開始、1963年映画部を設置して『仙人部落』『鉄人28 号』などを作る。
 1969年には映画部が株式会社TCJ動画センターとして独立、1973年に現社名。1969年から、現在まで続く『サザエさん』に関わり続けている。

20、『ひみつのアッコちゃん』
21、『アタックNo.1』
 この年、日本アニメ史上に少女漫画路線の作品が生まれる(『魔法使いサリー』は幼年全般向きだろう)。『アタックNo.1』はスポ魂ブームを少女にまで広げようとした作品。

22、『サザエさん』
 10月5日放送開始。現役(2013年現在)最年長のアニメが産声をあげる。特別なことが何もない、日常を描いた本作のスタイルは、当時としては「特別」だった。


1970年
23、『あしたのジョー』
 スポ魂ブーム、そして梶原一騎原作ものの頂点に位置する作品。出﨑統、杉野昭夫、荒木伸吾の登場。

 なお前年の『ムーミン』、そして『昆虫物語 みなしごハッチ』と、「名作物」ジャンルの萌芽が見られるのもこの頃。


1971年
 この年に、『巨人の星』『タイガーマスク』『あしたのジョー』が終了している。続編が作られた作品もあるが、スポ魂ものの「終りの始まり」である。
 「スポ魂もの」の直系と呼べるアニメ作品は現在少なくなっているが、そのエッセンスは意外なアニメジャンルで花開いている。それは、製作者側が意図的に「スポ魂もの」要素を取り入れた『バンブーブレード』『咲-Saki-』などの萌え系アニメなのである。

24、『ルパン三世』
 視聴率が一桁で、半年しか持たなかった。しかしその後…現在までの『ルパン三世』について、語る必要はないだろう。この後、『ヤマト』『ガンダム』と同じ「伝説」が繰り返されることになる。



1972年
 この年は虫プロ倒産の前年のため、同社の流れを汲むスタジオが2つ設立された。

 まずはマッドハウス。『幻魔大戦』『メトロポリス』『時をかける少女』など。虫プロの石神井スタジオのメンバーが中心。「有限会社マッド・ハウス」の名称で誕生し、2004年に「株式会社マッドハウス」となった。
 
 そしてサンライズ。虫プロの撮影、制作、営業などのスタッフで設立。昭和47年9月に「有限会社サンライズスタジオ」として発足、昭和51年株式会社日本サンライズ、昭和62年にはアニメーション製作会社として株式会社サンライズに継承、平成6年にはバンダイグループ傘下。

 なお虫プロ系列のスタジオとしては、音響監督だった田代敦巳が1968年に作ったグループ・タック(『まんが日本昔ばなし』『タッチ』)もあったが、2010年に倒産した。

25、『科学忍者隊 ガッチャマン』
 少なくとも90年代中盤までは、日本アニメをリードしていたのはSFジャンルだったと思う。そして70年代のSFアニメは、『新造人間キャシャーン』『宇宙の騎士テッカマン』などタツノコが引っ張っていた。
 本作のSF考証は、日本SF界の草分けの一人である作家・翻訳家・研究家の小隅黎=柴野拓美。日本最初のSF同人誌『宇宙塵』を創刊した人物。

26、『マジンガーZ』
 人が乗り込むタイプのロボット登場。新しいタイプのロボットアニメの始まり。
 「アニメ界のマネーメーカー」となる漫画家が存在しており、手塚の次に現れたのが永井豪だろう。72年には本作と『デビルマン』、翌年は『ドロロンえん魔くん』『キューティーハニー』、74年は『ゲッターロボ』『グレート・マジンガー』、75年は『ゲッターロボG』『UFOロボ・グレンダイザー』『鋼鉄ジーグ』(共同原作含む)と、70年代前半のSFアニメは「永井豪原作の時代」でもある。
 超合金などの玩具が売れて、新しい版権ビジネスのモデルとなった点でもエポックメイキング作品。

27、『海のトリトン』
 日本で初めて、自発的なファンクラブが結成されたとされるアニメ作品。この作品を今見る価値は、「善悪の転換」が全て。
 大塚英志は「富野由悠季が戦後アニメ史に残りうる価値があるとすれば、それは、『ガンダム』の商業的成功ではなく、『トリトン』」で与えた衝撃の大きさにおいてだとぼくは考えます」(『教養としての<まんが・アニメ>』) と書き、作家の光瀬龍は「物語そのものが私の記憶に残るものではなかった』(『「海のトリトン」の彼方へ』)とトリトンについて記している。
 実際に自分で見て、確認してほしい。話数が短いので、比較的楽に見ることができるだろう。

 『機動戦士ガンダム』への出発点とも言える『トリトン』が、『マジンガーZ』と同じ年に放送されていることには、歴史の不思議を感じずにはいられない。



1973年
 虫プロ倒産(1977年虫プロダクション株式会社として再生)。

 この年に放送された『チャージマン研!』を存分に楽しめる「オタクの目」を視聴者が獲得するのは、まだまだ先の話である。



1974年
 この年、初めて1年間における新作作品が20作を突破した(20作ちょうど)。また、以前からの継続放送作品と合わせて30作を越えたのも、この年が初めて(計34作)。
 ちなみに2012年の新作作品は159作だから、30年もたたずに8倍まで膨れ上がったことになる。

28、『アルプスの少女ハイジ』
 「まんが劇場」(後の世界名作劇場)の6作目にして(参考)、その後の名作シリーズの方向性を決定づけた作品。
 TVアニメで初めて本格的なレイアウト・システムを取り入れた作品でもある。

29、『宇宙戦艦ヤマト』
 『ハイジ』の裏番組、といえば『ヤマト』。
 テーマに深遠はないが、様々なSFギミックで高年齢層も魅了した。後の劇場版などを含む「ブーム」を形成し、社会にアニメの新しいファン層を認識させたことに関しては、大いに評価されるべき作品。 



1975年
 日本アニメーション設立。『ちびまる子ちゃん』など。
 もともと1972年に設立されたズイヨー映像(『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』)が改組して日本アニメーションとなった。

 葦プロ(現在のプロダクションリード)設立。竜の子からの分派。 『戦国魔神ゴーショーグン』『マシンロボ クロノスの大逆襲』など。

 有限会社シャフト設立。 『ネギま!?』『魔法少女まどか☆マギカ』など。

 10月、日本初のアニメーション専門誌「ファントーシュ」創刊。参考

30、『タイムボカン』
 竜の子の代表作の1つ。OPでアナログCGマシン「スキャニメイト」を使用している。


31、『まんが日本昔ばなし』
 グループ・タックが初制作したTVシリーズ。1度は終了したが、結局20年間続く長寿番組になった。30分アニメで、声優が2人のみというのもこの作品の特異な点。

32、『ガンバの冒険』
 東京ムービー。チーフディレクターは虫プロ出身の出崎統、画面設定は東映動画出身の芝山努、作画監督は同じく東映動画がルーツの椛島義夫。



1976年
 この年作られた22本の新規アニメのうち、8本がロボットアニメ(前年は4作)。
 『マジンガーZ』から始まった、ロボットアニメブームの本格的到来と呼んでいいだろう。

33、『キャンディ・キャンディ』
 関連商品が売れまくり、新たなマーケティング層として「女児」がはっきりと見えるきっかけとなった。

34、『超電磁ロボ コン・バトラーV』
 アニメの「うまみ」に遅まきながら気付いたのか、東映動画を飛び越えて東映本社が「製作」に乗り出してきた最初の作品。「制作」したのはサンライズ。
 ちなみに本作の第1話は、ロボットアニメのフォーマットとでも呼ぶべき素晴らしい物語運びを見せる。脚本を担当した辻真先本人は、後年のエヴァと比較して「懇切丁寧に語りつくした辻脚本は、今思えば中年太りでメタボにすぎた」と書いているが、そんなことはない。『ガンダム』を別格とすれば、いまだに色褪せない「ロボットアニメの第1話」である。



1977年
 みのり書房がアニメ雑誌『OUT』創刊。創刊号はサブカル誌の体で、レイ・ブラッドベリや吉本隆明を扱っていた。 翌号から『ヤマト』が扱われている。参考

 この年には、『立体アニメーション 家なき子』が放送された。「プルフリッヒ方式」を採用し、通常のテレビで3D放送を行ったアニメ。専用メガネを使用する。同方式を使った日本初、どころかおそらく世界初の番組。総監督は出崎統。

メガネをかけたら立体に見えた…のかな?



35、『宇宙戦艦ヤマト』(劇場版)
 再放送に伴って人気が上昇していたヤマトが劇場作品になり、「ブーム」となって、アニメに興味がない多くの人も知るところとなった。
 ヤマトブーム=第1次アニメブームが起きた年である。

36、『無敵超人ザンボット3』
 サンライズ初の自社作品。『トリトン』の核の部分を、ロボットアニメに持ち込んだ作品。ザンボット3を見ると、ガンダムが突然変異的に登場したわけではなく、きちんと段階を踏んで生まれたことが分かる。
 ヒーローの否定、「人間爆弾」の衝撃など、作画にさえ目をつぶれば、今でも充分に視聴に耐えうる作品。



1978年
 アニメブームを受け、大手出版社が月刊アニメ専門誌を創刊する。6月に『アニメージュ』発売(7月号)。表紙は『ヤマト』。参考
 アニメ誌の創刊歴史としてはこの後、同年末月『マニフィック』(後の『アニメック』)創刊。80年には『アニメック』の姉妹誌『ふぁんろーど』創刊。
 81年に学研が『アニメディア』創刊。表紙はメーテルと小さく鉄郎。
 『ニュータイプ』は1985年とかなり後発。この間にも近代映画社『ジ・アニメ』、秋田書店『マイアニメ』が創刊されている。

 ヤマトブームを背景に、松本零士が手塚、永井に次ぐ「アニメ界のヒット漫画家」となる。この年の松本原作作品は劇場版『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』をはじめ、TVでは『宇宙戦艦ヤマト2』『宇宙海賊キャプテンハーロック』『SF西遊記スタージンガー』『銀河鉄道999』と怒涛の勢い。

 またこの年、日本テレビ「24時間テレビ」内で、TVアニメ初の2時間スペシャル『100万年地球の旅バンダーブック』が放送されている。この作品で、手塚がアニメ界に復帰。
 後に「放送が始まっているのに、まだ絵コンテを切っていた」などの手塚伝説を生みだす、24時間TVアニメのスタートである。

 それともう1つ、ディズニーの劇場用映画がはじめて日本のテレビで放送された

37、『未来少年コナン』
 宮崎駿の初監督作品であり、NHK初の30分シリーズアニメ。作画監督大塚康生、絵コンテはとみの喜幸、石黒昇、奥田誠治、高畑勲など。



1979年
 スタジオぴえろ設立。竜の子プロの吉田竜夫が45歳で急逝した後、同社の演出家布川ゆうじが設立した。『うる星やつら』『幽☆遊☆白書』『ヒカルの碁』『魔法の天使クリィミーマミ』など。

38、『ルパン三世 カリオストロの城』
 「映画監督」としての宮崎駿の出現。製作の藤岡豊は「こんなに面白いのにコケるよ…残念ながら」と言い、宮崎自身にも忸怩たる思いがあった。事実、興行成績はルパン前作を下回った。公開当初から、現在と同じ評価だったわけではない。

39、『ドラえもん』
 現在まで放送が続く、子ども向けアニメの金字塔。シンエイ動画が初めて元請として受注した作品でもある。有名な話だが、これより6年前に、1度日本テレビが『ドラえもん』をアニメ化してる。

40、『機動戦士ガンダム』
 アニメファンの枠を越えて話題になり、数多の亜流を生み出した。



1981年
 78年の『バンダーブック』から始まったスペシャルアニメが、この年は16本も放送された。

41、『Dr.スランプアラレちゃん』
 東映動画。最高視聴率36.9%を記録し、ジャンプ作品アニメ化の先鞭となった。

42、『うる星やつら』
 約4年半も放送された。現在の萌え系アニメのルーツと見る向きもあるが、「主人公がヒロイン以外の女性には好意を寄せられていない」「主人公は女性にモテようと努力している」など、似て非なる要素がたくさんある。
 初代のチーフディレクターは押井守。脚本家の伊藤和典、キャラクターデザイン高田明美と、後の「ヘッドギア」のメンバーがいる。
 ちなみに本作は、1987年に50枚組のLD-BOXとして発売。売れ行きが良かったことから、他作品も発売され、様々なアニメのDVD-BOX・Blu-rayBOXがリリースされまくっている現在に繋がっている。参考。 ちなみに『うる星やつら』LD-BOXの値段は、全部で33万円也



1982年
 前年の『うる星やつら』、本年の『THEかぼちゃワイン』、そして翌年の『みゆき』『ナイン』と、80年代前半はラブコメジャンルが興った。このブームも、漫画界と連動している。


43、『超時空要塞マクロス』
 ロボット+SF+アイドル+ラブコメ。一世代上のクリエーターには描けない世界であり、新世代の出現。飯島真理は、新しいタイプのアニソン歌手のはしりともなった(本人はご不満かもしれないが)。

44、『ときめきトゥナイト』
 漫画界とアニメ界の繋がりも、さらに密になっていく。この作品は、「新人漫画家」池野恋が『りぼん』で連載「しようとしていた」漫画が原作。なんと漫画連載とアニメが同時期にスタートした。
 池野はまだ内容も固まっていない新連載(本作)打ち合わせ時に、担当から「次の連載はアニメ化することになったから」と知らされたそう。漫画とアニメが同時進行する、斬新なスタイルだった。
 もっとも『デビルマン』(1972年)も、アニメ化が決まった時点で原作が全くできていなかったのだが、永井豪はすでにヒットメーカーだった。



1983年
 やれやれ、やっと――
 ぼくが「自分の言葉」で語ってもいい時代だろう。

 この年は、新しいアニメ媒体「OVA」(学研なら「OAV」)が登場した年。まだビデオレンタル店も普及しておらず、出来も分からないのに大枚をはたいて「買う」が基本姿勢だった。OVAの歴史については、拙ブログ を参照いただければ幸いです。

 TVアニメは『ジャンプ』の年。『キン肉マン』『ストップ!!ひばりくん!』『キャプテン翼』『CAT’S・EYE』、さらに月刊ジャンプから『キャプテン』。
 「男の娘」のはしりあり、腐女子が増えた要因あり、アニソンシンガーではない歌手がアニメ主題歌を歌うようになったきっかけあり、となかなかに楽しい1年である。もっとも腐女子には『ゴッドマーズ』、アニソンでもゴダイゴやジュリーなど、先例はあった。

45、『装甲騎兵ボトムズ』
 ガンダム以後、「大河ロボットアニメ」とも呼べるべきものが多数作り出された。その両輪を支えたのが、富野と高橋良輔。『ボトムズ』は「リアル系」の到達点の1つ。 

46、『魔法の天使クリィミーマミ』
 魔法少女+芸能界もの。スタジオぴえろの魔法少女1作目にして、初のオリジナルTVアニメーション。参考。 主演は新人歌手の太田貴子。アニメと現実をリンクさせ、レコード売り上げで結果を出した。『マクロス』の飯島真理と同様の現象と言っていいだろう。この後、田村英里子や田中陽子が同じ手法で売り出されていく。

47、『ダロス』 
 日本初のOVA。ということになっている。以前にも書いたが、本当は『ダロス』より先に発売されたアニメ(確かロリコンもの)があったはずだが、どう検索しても見つからない。
 監督は押井守。先に2巻を発売してから、次いで1巻を出す変則的なリリースだった。



1984年
 ガイナックス設立。東映、虫プロ、竜の子のいずれの流派にも属さない、新しいタイプのスタジオのはしり。しかもアニメファンが設立したスタジオであり、現在から見ても特殊な出自と言えるだろう。

 1984年は『北斗の拳』、宮崎駿『名探偵ホームズ』などが放送された年。大人向けの実用ショートTVアニメ『ドタンバのマナー』もこの年から始まり、3年間放送された。



1985年
 株式会社スタジオジブリ設立。株式会社徳間書店の子会社として活動を始め、1992年に自前のスタジオを建設、1997年の徳間書店との合併を経て2005年4月に「株式会社スタジオジブリ」となった。

 株式会社京都アニメーション設立。虫プロ仕上出身の八田陽子が1981年に京都で結成した仕上グループが母体。1985年有限会社化。1999年株式会社化。

 この年、アニメの製作本数が前年より23本も減る(84年が78本、この年55本)。微減した年もあったが、これほど減ったのはこの年が初めて。参考(PDFファイル)。この数字からも、第1次アニメブームが10年間持たずに終焉したと捉えて問題ないだろう。なお、この後93年(21本減)と00年(25本減)、10年(23本減)にも大幅減少している。

 ただしアニメの製作本数は減っているのに、藤子不二雄原作のアニメは以前から放映継続の『ドラえもん』『忍者ハットリくん』『パーマン』に加え、この年から『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』と増えている。どれほどブランドとして信頼されているか伺えよう。

 また「アニソン」の側面からも、新しい流れが生まれた。前記した『CAT’S・EYE』の杏里、『魔法の天使クリィミーマミ』の太田貴子、この年の『ダーティペア』中原めいこなど、ニューミュージックやアイドル畑からのアニソン参入は以前からあった。
 これらには、曲とアニメのイメージが重なる部分を感じられた。本年の『ハイスクール! 奇面組』『超獣機神ダングーガ』と、あまり本編の色と合わない主題歌も採用されるようになる。


48、『機動戦士Zガンダム』
 ガンダムシリーズにおける、富野由悠季の最大の功績は、本作において「新しい続編のあり方」を提示したことにある。リメイクでもなければ同じ主人公でもない、物語世界の時間を進めて新しいキャラクターを用意する続編は、当時画期的だった。賛否両論おきたが、「ガンダム」というコンテンツが膨張し続けている現状を見れば、正解だったことは明らかだろう。

49、『タッチ』
 ラブコメブームの殿(しんがり)。ラブコメブームの嚆矢となった『うる星やつら』が竜の子系の押井、殿『タッチ』が虫プロ系の杉井ギサブローが監督だったことには、何かの巡り合わせを感じる。



1986年
 J.C.STAFF設立。 『とらドラ!』『とある魔術の禁書目録』など。

50、『DRAGON BALL』
 ジャンプ原作アニメの頂点の1つ。改題しながら11年続いた。当初、「『Dr.スランプ』より売れる」なんて思っていなかった人も多いだろう(そのくらい、『Dr.スランプ』もヒットした作品だった)。



1987年
 Production I.G(当時は有限会社アイジータツノコ)設立。
 同年に『赤い光弾ジリオン』を竜の子プロより独立してタツノコ制作分室にてグロス受け、その後に設立した。1993年、『機動警察パトレイバー2 the Movie』で作品への出資を開始。

 この年の7月4日、日本初の衛星(BS)放送であるNHK-BS1が24時間放送開始。参考

 『機甲戦記ドラグナー』が終了、つまり長年続いたサンライズのリアルロボット枠が終了した年。しかしサンライズは初の原作もの『CITY HUNTER』、『ミスター味っ子』を手掛け、次の一手を打っていた。

 異色作としては、劇場版まで作られてしまったアダルトアニメ『くりぃむレモン』の姉妹版として、『レモンエンジェル』がTV放送された。
※爆笑禁止


51、『アニメ三銃士』
 公共放送であるがためにアニメ作品の著作権を持っていなかったNHKが、82年の放送法改定に伴って85年にNHKエンタープライズ設立、本作で「製作」に本格的に乗り出す。
 著名な原作をモンキーパンチが翻案した。監督は湯山邦彦、音楽は田中公平。



1988年
 テレビ朝日とシンエイ動画で独占していた感のある藤子アニメ作品だが、『キテレツ大百科』をスタジオぎゃろっぷが作りフジテレビで放送した。

 
52、『それいけ! アンパンマン』
ベビー層に圧倒的な支持を得る、モンスターキャラクターの誕生。商業的な側面から見ると、現在日本で一番価値があるキャラクターである。

53、『機動警察パトレイバー』(OVA第1期
 OVAとしては破格の廉価、メディアミックス展開、そして後にTVシリーズへの進出と、新しいモデルを提示した作品。この作品後、OVAの意味は変わった。『ボトムズ』とは別方向の、リアルロボットの到達点。



1989年
 1週間に放映される30分TVアニメの本数が、初めて40本台になった。



1990年
 勇者シリーズ第1作『勇者エクスカイザー』が作られた。またガイナックスが初めて実制作を担当したTVアニメシリーズ『ふしきの海のナディア』や、三井不動産販売(株)創立20周年事業の一環として作られたスペシャルTVアニメ『雲のように風のように』(キャラクターデザイン・作画監督近藤勝也、監督鳥海永行)もこの年。

54、『ちびまる子ちゃん』
新たな「国民的アニメ」の誕生。


 さて、90年代。触れておかねばならないのは、1989年に逮捕された宮崎勤の事件だろう。この事件後、アニメ、漫画、ホラー映画ファンへの世間の風当たりは、非常に強いものとなった。
 事件発覚当時、TVリポーターがコミケ会場において「ここに10万人の宮崎勤がいます!」と実況したという逸話があるが、これが真実であるにせよ都市伝説であるにせよ、当時の風潮・世論をよく表していることは間違いない。

 一方、視聴環境としては恵まれる時代になった。1980年代中盤から始まったビデオレンタル店の普及、合わせてソフト発売の活発化により、過去のTVアニメシリーズ視聴が容易になった時代でもある。

1991年
 本年は、日本俳優連合所属の声優など約800人が、アニメ制作現場の状況改善・声優の待遇向上などを目的にデモ行進をした。「そんなに安くちゃいけないよ君達!!」と行動を後押ししたのは、同連合の理事長であった森繁久弥。
 結果、「最低ランクを1万5000円とする」などの取り決めが日俳連、音声連、マネ協の三者でなされ、声優の出演料は平均1.7倍の増額となった。参考。

 またWOWOWが本放送を開始したのもこの年。

 アニメ作品としては、工夫を凝らしたギャグ表現が人気を集めた『きんぎょ注意報!』が登場。またTVアニメ初の百合物『おにいさまへ…』がNHKで制作されている。監督は出崎統。ちなみに少年同士の愛を描いた作品は、『風と木の詩』が1987年にOVAで発売されている(監督は安彦良和)。



1992年
 有限会社ゴンゾ設立。2000年に株式会社ゴンゾ・ディジメーション・ホールディング設立、2009年株式会社ゴンゾに社名変更。『青の6号』『フルメタル・パニック!』『ストライクウィッチーズ』など。

 サンライズが初の少女向けアニメ『ママは小学4年生』を発表。
 他に、子ども向け番組として作られたのに特異なセンスで大人からも人気だった『ウゴウゴルーガ』や、おそらく初めての麻雀TVアニメ『スーパーヅガン』もあげておこう。

55、『クレヨンしんちゃん』
 現在まで続くファミリーアニメ。しかし『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』との決定的な差異は、核家族を描いていること。映画版も数多く作られ、高評価を得ている。

56、『美少女戦士セーラームーン』
 特撮ヒーローもので行われていた「色によるキャラクター分け」を、少女向けアニメに持ち込んだ。本来のターゲットであった女の子達はもちろん、大きなお兄ちゃん達も夢中になった
 サブキャラクターなのに一番人気だった水野亜美は、「単独で」『Newtype』と『アニメージュ』の表紙を飾っている。



1993年
 アニメ専門チャンネル「株式会社キッズステーション」が設立され、衛星アナログ配信を開始した。
 ちなみに「株式会社エー・ティー・エックス」(AT-X)は1997年12月にディレク・ティービーで放送開始、2000年に会社を設立。「株式会社アニマックスブロードキャスト・ジャパン」(アニマックス)は5年後の1998年に設立、同年7月1日に有料放送を開始している。

  『風の谷のナウシカ』(1984年)からアニメ映画で採用されていた「製作委員会方式」が、この年の『無責任艦長タイラー』によってTVアニメにも初めて持ち込まれる。リスク分散だけではなく、ソフトで資金を回収する新しい収支モデルへの挑戦でもあった。
 およそ7年ぶりに、富野由悠季が『機動戦士Vガンダム』でTVアニメに復帰した。



1994年
 株式会社 オー・エル・エム設立。オービー企画のプロデューサーだった奥野敏聡が作った。『ポケットモンスター』『イナズマイレブン』など。

 『機動武闘伝Gガンダム』が発表され、宇宙世紀から外れた新しいガンダム世界が構築された。「戦争じゃなく格闘にする」「ガンダムがいっぱい出る」などの大英断がなされたのは、放送予定のわずか5ヵ月前だった。



1995年
 1983年の項で「ぼくが『自分の言葉』で語ってもいい時代が来た」と書いたが、この年は「ぼく(アニメ第2世代)の時代が終った」と書いても、差し支えないかと思う。本当はここから先、誰か書いてくれないかな…
 少なくともSFアニメに限っては、「新世紀」が来た。『アトム』~がSFアニメの第1期、『ヤマト』『ガンダム』以降を第2期とするなら、『新世紀エヴァンゲリオン』登場は第3期の到来である。
 ただし、わざわざ書くまでもないことだが、『新世紀エヴァンゲリオン』とて独自の立場に屹立している作品ではなく、アニメ史の流れの中で生まれた作品である。

 株式会社サテライト設立。この年に作った世界初の全編デジタルアニメーションTVシリーズ『BiT the CUPID』制作が創業の起源。2003年、河森正治が取締役に就任。『創世のアクエリオン』『超時空要塞マクロスF』など。

 この年には押井守監督『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』が公開されている。後年、ビデオがアメリカのビルボードにおいて、ビデオセールス1位を記録したことで日本でも話題になった。

57、『新世紀エヴァンゲリオン』
 似ているようで違う道を歩んでいた日本の特撮ヒーローものとSFアニメが、この作品でがっちりと握手をする。OPも斬新だった。先輩格にあたるガンダムシリーズが、登場人物や作品世界を次々に新しくすることで延命しているのに対し、エヴァは本シリーズをリファインし続けることで現在まで続いている。


 『エヴァ』が放送された本年あるいは翌年が、第2次アニメブームの始まり。
 『ガンダム』がそうであったように、『エヴァ』も様々な亜流を生み出していく。



1996年
 有限会社ブレインズ・ベース設立。東京ムービー新社のプロデューサー小沢十光が1996年に設立した。『夏目友人帳』『輪るピングドラム』など。

 『赤ずきんチャチャ』(1994年)で才覚を見せていた大地丙太郎が、『こどものおもちゃ』を発表した年。また佐藤竜雄が『機動戦艦ナデシコ』で単独監督デビューした。



1997年
 『セーラームーン』の初期から演出で注目を浴びていた幾原邦彦が、『少女革命ウテナ』発表。また『家なき子レミ』放送終了をもって、世界名作劇場シリーズの幕が閉じた。

 東映動画は、本年の『ゲゲゲの鬼太郎』で仕上以降を完全デジタル化。このデジタル化の流れは、他社にも瞬く間に広がっていくことになる。

58、『ポケットモンスター』
 ゲームのアニメ化で、おそらく最も商業的成功をおさめた作品。ゲーム・アニメなどのメディア展開の結果、1996年(ゲーム)の登場から9年間で、全世界から3兆円を稼いだ。
 また約70ヵ国で放送されるなど、輸出コンテンツとしても優れた作品。2006年と少し古いデータだが、アメリカにおけるアニメ映画の興行成績は1位『ミュウツーの逆襲』、2位『幻のポケモン ルギア爆誕』、3位『結晶塔の帝王』とベスト3を独占している。

 12月16日、ポケモン事件発生。



1998年
 庵野秀明が『彼氏彼女の事情』監督。

 地上波(テレビ東京)ではグチャグチャにして放送されてしまった『カウボーイビバップ』を、WOWOWが完全な形で放送。新しいアニメ発表の場として、アニメファンに存在感を示した。
 TV版最終話「よせあつめブルース」。皮肉のきいたタイトルですね。


 同時に、独立UHF局においても『LEGEND OF BASARA』が放送された。独立UHF局はこの後、萌え系アニメなどを多数放送していくことになる。

59、『ブレンパワード』
 WOWOW初の有料アニメとして、スクランブル放送された。OPにおけるキャラクターの裸は、「WOWOWの自由度の象徴」とも言えるだろう。富野由悠季が14年ぶりに手がけた、非ガンダムのTVアニメシリーズ。
ノンテロップOP




1999年
 現在まで人気が継続している『ONE PIECE』のTVアニメがスタートした年。
 また富野由悠季が『∀ GUNDAM』を発表。広がり続けるガンダム世界(SD除く)を「まとめる」、さすがの手腕を見せた。

 なおこの頃から既に、『星海の紋章』『宇宙海賊ミトの大冒険』『十兵衛ちゃん―ラブリー眼帯の秘密―』など、1クールアニメが散見される。そしてこれらの作品は、現在の視点から見ると分割2クールの作品でもある。1クールアニメは、翌年には16タイトル、翌々年には25タイトル(30分作品のみの数字)と、どんどん増えていく。



2000年
 ユーフォーテーブル有限会社設立。東京ムービー新社、テレコム・アニメーションフィルム出身の制作プロデューサー近藤光が設立。『まなびストレート!』『Fate/ZERO』ほか。

 株式会社ピーエーワークス設立。Production I.G、ビィートレインを経た堀川憲司が設立した越中動画本舗株式会社が起源。2002年、現社名に商号変更。『true tears』『Angel Beats!』『花咲くいろは』など。

 この年は放送界に大きな動きがあった。
 1994年に設立された「PerfecTV!企画会社」と、1996年設立の「ジェイ・スカイ・ビー㈱」は98年に合併し、「スカイパーフェクTV!」になっていた。そしてこの年の3月、ライバルだった「DirecTV Japan」が放送終了、「スカイパーフェクTV!」がその加入者を引き受ける。参考。多チャンネル化時代が本格化する。

 また2000年前後からflashアニメーションが普及し始めて、クオリティを無視して考えれば、個人でもアニメ制作が可能な時代になる。参考。映画、TV、OVAに続く新しい作品発表の舞台として、ネットがいよいよ存在感を増してくる。
 WEBアニメの配信も始まった。2000年12月28日には、『あずまんがweb大王』が配信開始。参考。2004年には「蛙男商会」がWEBアニメ『菅井君と家族石』を発表。同商会は少人数での制作体制ながら、後に劇場作品を作るまでに至った。

 

2002年
 株式会社マングローブ設立。サンライズのプロデューサーだった小林真一郎が代表取締役社長。2004年の『サムライチャンプルー』がオリジナルアニメ第1弾。他に『ミチコとハッチン』『神のみぞ知るセカイ』など。
 
 株式会社セブン・アークス設立。『魔法少女リリカルなのは』など。

 有限会社フィール設立。スタジオぴえろの制作であった瀧ヶ崎誠が設立。『だから僕は、Hができない。』『パパのいうことを聞きなさい!』など。

60、『ほしのこえ』
 『アトム』誕生以降に分かれたはずの「商用アニメ」と「アートアニメ」を、この作品が融合させた。しかもそれは、アニメ誕生期の家内制手工業にかえったような制作課程を経て、私達の前に現れた。



2003年
  『千と千尋の神隠し』が日本のアニメとして初めて、第75回米アカデミー賞の長編アニメ賞を受賞した



2004年
61、『ふたりはプリキュア』
  『セーラームーン』を髣髴とさせる、女児向けアニメの大ヒット作。メインターゲットではない大人(男)のファンを多数獲得した点でも、『セーラームーン』と似ている。ただし『セーラームーン』がキャラクターを上積みしていった結果、作品が縮小したのに対し、本作はシリーズごとにキャラクターを一新する(例外もあるが)ことで現在まで人気が続く長期作品になっている。



2005年
 A-1 Pictures設立。アニプレックスの資本100%で設立された、ソフトメーカー主導のスタジオ。翌年、本社・阿佐ヶ谷スタジオを新設して本格的に稼動。 『WORKING!!』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『ソードアート・オンライン』など。

 株式会社ディオメディア設立。グループ・タック出身の須賀信行が『大魔法峠』制作のために作った会社が前身。2007年に改組・商号変更。『こどものじかん』『侵略!イカ娘』など。

 この年に『ドラえもん』の声優が一新した。
 フジテレビでは、深夜アニメ枠として「ノイタミナ」を新設。第1弾は『ハチミツとクローバー』、第2弾が『パラダイスキス』。参考。



2006年
 この年、TVアニメ制作分数が過去最高の136.407分になった。またTVアニメタイトル数も過去最高で、継続放送84作・新規作品195作・計279作。新規作品数単独で見ても、この年が最も多い。2013年現在もこの記録は破られていない。参考。

 アニメの楽しみ方が変わる、ニコニコ動画が作られたのもこの年。

62、『涼宮ハルヒの憂鬱』
 京アニ、ヤマカン、平野綾、世界系と様々な小爆発を起こした本作だが、大局的に見るならばライトノベル原作アニメのブームを本格化させた作品と位置付けられるだろう。ライトノベル発のアニメは、(『ライトノベル』という言葉はまだなかったが)『スレイヤーズ』(TVシリーズ、1995年)、あるいはもっと遡って『ロードス島戦記』(OVA、1990年)あたりに源流を見出せるか。なぜライトノベルがアニメ化に適しているかは、「アニメ化するのに必要な単行本数が少なくてすむ」「(コミックに比べて)多作できる」などが指摘されている

 

2007年
 株式会社WHITE FOX設立。オー・エル・エムのプロデューサーだった岩佐岳が、『うたわれるもの』のメインスタッフと共に設立。『刀語』『ヨルムンガンド』など。

 株式会社デイヴィッドプロダクション設立。GONZOに所属していたメンバーで設立。『ベン・トー』『ジョジョの奇妙な冒険』など。

 この年から、日本アカデミー賞に「優秀アニメーション作品賞」部門が新設される。初年度のノミネート作品は『時をかける少女』『あらしのよるに』『ゲド戦記』『ブレイブストーリー』『名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌』だった。最優秀賞は『時をかける少女』。
 なお同賞は、翌年の『鉄コン筋クリート』をのぞけば、細田監督作品とジブリ作品がほぼ交互に最優秀賞を受賞している(2013年現在)。

 プロダクション I.Gの『精霊の守り人』、マッドハウスの『電脳コイル』と、NHKが力作を立て続けに放送した年でもある。

63、『らき☆すた』
 「地域活性化」という新しいアニメの活用法を、広く知らしめた作品。制作陣には当初、そんな意図なかっただろうが。

64、『空の境界』
 「単館系アニメ」とでも呼ぶべき、新しいアニメ映画の潮流を生むきっかけとなった作品。同作のヒットは、物販の売り上げ(本作の劇場における関連商品売り上げは、興行収入対比で100~200%だった)などアニメ映画の長所を劇場に再認識させる契機となった。ただし『ブレイクブレイド』や『マルドゥック・スクランブル』など同じ形態の作品が生まれた一方、メディアが本作と『涼宮ハルヒの消失』(2010年)を同列にして報じるなど、まだまだ「単館系アニメ」の概念があやふやな部分もある。劇場アニメのタイトル数は2009年から増加を続けているが、「単館系アニメ」がジャンルとして定着するのか、それとも泡沫で消えるのか、数年後には明らかになっているだろう。



2008年
 『超時空要塞マクロスF』が人気を集めた年。

 また、Twitter日本語版がサービスを開始した。 株式会社ニワンゴは、『ニコニコ動画』においてヤフー株式会社と協業。翌年にはプレミアム会員数が60万人、ユーザーID登録者数が1500万人を突破している。参考。以前から2ちゃんねるで実況版はあったが、ニコニコ動画、そしてツイッターの普及により、アニメは「コミュニケーションツール」としての様相を強く帯び始める。
 またアニメを発信する側も、これらのネットサービスを積極的に活用するようになっていく。



2009年
 フッズエンタテインメント株式会社設立。GONZOのプロデューサーだった永井理が、当時の同社屋内に作った。『聖痕のクェイサー』『謎の彼女X』など。

 テレビ東京とアニプレックスが、新たなプロジェクトとして「アニメノチカラ」を発表。しかし翌年の『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』含む3作のみの発表にとどまった。

 前年18本も減った(51本から33本)劇場アニメが、この年は44作と再び増加した。『ポケモン』『コナン』『クレヨンしんちゃん』など定番のほかに、『サマーウォーズ』『マイマイ新子と千年の魔法』などが公開された。

65、『けいおん!』
 萌え系アニメとしては異例だが、アニメファンの枠を超えてブームとなった。関連音楽も売れ、主題歌シングルはオリコン史上初めてキャラクター名義での首位をとった。前年の『マクロスF』もあり、売り上げにおいてアニソンが一段飛躍した時期だろう。



2010年
 株式会社Studio五組設立。GONZO第5スタジオのスタッフが独立した。『咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A』『この中に1人、妹がいる!』など。

 この年はガイナックスの意欲作『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』が話題を呼んだ。






 さて、長らくお付き合いいただきありがとうございました。

 2011年、2012年の作品はありません。なぜなら、ここ1、2年の作品が、「アニメ史において重要かどうか」なんてぼくにはまだ判断できないからです。

 例えば『魔法少女まどか☆マギカ』がアニメ史に残りうるのか、それとも5年後・10年後には「ただ人気があった作品」で終るのかは、まだ誰にも分からないと思います。

 そんな訳で、終りです。

 最後に参考資料を明示しておきたいと思います。
 基本、1回のみの資料にはその都度リンクを貼っておきましたが、参考頻度の高い書籍・サイトはまとめてここで明記します。

 まず、底本とも呼ぶべき書籍が辻真先さんの『ぼくたちのアニメ史』(2008年、岩波書店)。
 非常に参考になりました。

 さすがに年代が進めば、ぼくも知っていることがほとんどでしたが、古い時代の話は大変勉強になりました。

 特に『鉄腕アトム』より先に、アニメはCMとしてTVに流れていた、などは鋭い指摘でした。

 ぼくも「トリスを飲んでハワイに行こう」のCMなどは知識として知ってはいましたが、時代までは意識してなかったからなー。
 大雑把に「昔・白黒」とだけ把握していたので、まあここら辺が「現在から過去を知ろうとする」行為の最初の壁なんでしょう。

 『ぼくたちのアニメ史』は、そんな知らない過去を遡って記事を書く際に、大変参考になりました。

 正直、今回の記事について考えていた初期は、『白蛇伝』くらいから始めりゃいいだろう、くらいに考えていたのです。が、この本を読んで認識の甘さを知りました。

 ちなみにこの本、富野に関してもちょっとだけ記述があります。辻さん、富野に「好きに作ったから見て」と『リーンの翼』を勧められたそうです。


 もう1冊、SF面の記述を補強するために『SF大辞典』(1986年、角川書店)も参考にしました。ヨコジュンさん。


 次はネット上で読める資料です。

 まずはコレ。「アニメ・マンガ人材養成産官学連携コンソーシアム」(PDF)。

 どの講義も、テーマ名でググるとPDFで読めます。

 こんな資料をタダで読めるなんて、いい時代になったもんだ。

 全部読みましたが、特に「なぜアニメ産業は今の形になったのか~アニメ産業史における東映動画の位置付け」と「アニメの三大源流とその系譜~東映・虫プロ・タツノコ」の2つは参考になりました。
 各アニメスタジオの記述については9割方、後者の資料に拠っています。また東映動画で激しい労働争議があった・ことだけは知っていましたが、ロックアウトまでしていたとはね。

 それに、東映だけが有名ですけれど、他のスタジオでもあったらしいですね。


 さて、最後に参考文献として明記しておくサイトは、『TVアニメ50年史のための情報整理』さんです。


 今回の記事を書き始めてから見つけたのですが。

 各年の放送作品一覧をどう探そうか困っていたので、大変有難かったです。

 また「1997年の鬼太郎から仕上以降の完全デジタル化が始まった」など、このサイトさんを読んでいなければ知り得ない情報もありました。
 ちなみに2004年までしかリストがないので、それ以降は「アニメ評価データベースさち」さんを参考にしました。


 あと4年で、日本にアニメが生まれて100年になる。


 せめてそれまでは生きて、アニメを楽しんでいたいね。 




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