どうも。毎度お運びありがとうございます。
今回も少しの間、お付き合いのほどを。
10月中旬、ネットにあがった富野監督のインタビュー記事が、ぼくのツイッターのTL上で何回も流れてきました。
読み応えのあるインタビューで、何人もの方がRTされたためです。ぼくも楽しく読みました。
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さてこの中で、富野監督は(またもや)『君の名は。』及び新海監督について言及しています。下記の内容です。
「(『GODZILLA』は)ヘリコプターがミサイルを撃っていれば気が済む。街を壊す絵で気が済む。そういうのが好きな人に作らせればいいものができると思っている。『君の名は。』も映画とは思えない部分がある」。
「けれども、芸能というのは客を集めてナンボの世界だから、その部分だけでいえばあれでよいともいえるから全否定はしません。ただ、動員数に屈服してしまって、映画評論家といわれる人たちが映画の内容に対してきちんと評価できていません。そんな評論だと新海(誠)監督が堕落していくだけだよと言いたいですね」
では、富野監督は新海監督に何を伝えていたか?
富野監督は『君の名は。』ヒット以降、主に『この世界の片隅に』とセット・あるいは比較する形で、何回か新海監督に言及しています。例えばこの記事とか。
富野監督と新海監督は今から15年前の2002年、特設サイト「『ほしのこえ』を語ろう。」(現在は閉鎖)で対談しています。
文字通り、新海監督の『ほしのこえ』が発表された頃ですね。ほしのこえ、DVD買ったな…
富野監督は『キングゲイナー』の頃。
対談タイトルは「デジタルとアナログの温度差」です。
この対談で、富野監督は要約すると次のようなことを語っています。
同じアニメという媒体だけれど、(富野作品と『ほしのこえ』は)大衆小説と私小説くらい違う。
職業作家と、個人の情熱をモチベーションにしてモノを作る人間は違う。新海さんは「作家」としてのスタンスが明快になっていないのに商業ベースに押し上げられた。
今後、新海さんは技術者としてやっていくのか、作家性でやっていくのか。それで在り方が根本的に変わる。
パソコンの登場で趣味と仕事の境界線があいまいになった。
新海さんは、次にどんなものをつくるのか、5年後10年後、何をやっていくのかが本当に重要。
アニメ貧乏(経済的貧乏ではない)に気を付けようぜ、と新海さんには伝えたかった。
新海さんの作家性というものは認める気はないんです。ナイーブさ、弱さが魅力になっている部分が強すぎる。
相談されても正解を与えることはできないと思うけど、うちのスタジオで働いてみな、ということは言えます。
当時から、新海作品の特長を捉えていたコメントも
富野監督の言だけいくつか抜きましたが、新海監督はこの時点ですでに「一人でやることにこだわりはないので、キャラクターとか物語の部分では出来る人と組んでやっていきたい」と話しています。
ところで今回の対談を読み直してビックリしたのが、下記の富野監督の一言でした。
新海さんにどのような才能があったかというと、道具と社会情勢、音楽、テーマ、風景などの組み合わせの効率論を考える才能だと思います。
どうですか。まるで、『君の名は。』への論評だと思いませんか?
道具=組紐、口噛み酒
社会情勢=東日本大震災
音楽=前前前世
………
特に「社会情勢」なんて、『ほしのこえ』のどこを見て出てきたのか…繰り返しますが、『君の名は。』への指摘かと錯覚してしまいます。
この対談で富野監督は「5年後10年後、何をやっていくのかが本当に重要」と言っていて、そして新海監督は10年は過ぎていますが、『君の名は。』を作りました。
ぼくは『君の名は。』には否定的ですが、それでも『秒速5センチメートル』では剥き出しになっていた・富野監督いうところの「弱さ、ナイーブさ故の魅力」が『君の名は。』では鳴りを潜めていて、観客のことをものすごく考えて作っているな、との印象を受けました。
映画において、勿論動員数は絶対の評価基準ではないけれども、少なくともプライベートフィルム的な要素があったとしても、多くの人を惹きつける何かがあったのは事実だったと思うんですよね。
しかも『君の名は。』は、計算づくだった気配があるし。
だから、富野監督が思う「映画とは思えない部分」がどこなのか、具体的に知りたくなります。
まあ、最後の部分なのかな…それなら少しわかる気もするけれど。
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