『ガンダム Gのレコンギスタ』(Gレコ)全感想まとめ。 [富野監督関係]
今回のエントリは、これまで書いてきた『ガンダム Gのレコンギスタ』の感想を再掲載したものです。情報系の記事は抜かしたけれど、それでも長い。
10年以上富野作品関連をメインとしてきたブログを書いてきて、実は「TV放送に合わせて感想記事を書き続ける」体験をしたのは『Gレコ』が初めてでした。毎週更新は挫折したけれど。
キンゲはぼく、DVD買って見たので…
非常に面白い体験でした。放送時じゃないと、絶対に書かないような記事もあったし。
だから一番思い入れのある記事は、「『Gのレコンギスタ』(Gレコ)3話で、なぜアイーダ様は踊りながら出てきたのか?」ですね。
結果的には大間違いだったわけですが(しかもコメント欄で「ああやって登場するのが彼女にとってはごくごく普通の行動なんだろうと思っておりました」と書いている方までいる)。
ツイッターでも「坂井さん最近間違い多い」とか「感心したのに」とか書かれたし(笑)。
でも自分では、書いた内容はそこそこ悪くなかったと今でも思っているし、何より・後からDVDなりBlu-rayなりで全話見て答えを知ったら絶対に書かなかった記事だしね。
リアルタイムで見ていたからこその記事なので、愛着あります。他にも予想外れている記事あるけれど。
あと残念なのは、頑張って書いた感想記事より、一番アクセス多かったのが「『Gのレコンギスタ』(Gレコ)を放送する地上波が3局しかないと知って、しばし呆然としたのでした。また「子ども向け」から遠ざかる」だったことですね。
ケタが1つ違った。コレはつまり、「新作のガンダム始まるのか。どこで放送するんだ?」と検索した方々が辿り着いた記事なのです。
フフフまさかガンダムともあろうものが、地上波では3局のみとは思いもしなかったであろう。
では。再掲した記事は時系列です。先行上映とか懐かしいな…
当然のように、『ガンダム Gのレコンギスタ 特別先行版』の劇場公開を初日に見まして。
大まかな感想は、ネタバレをしないように留意しながらツイッターで呟きました。先走りの液でていたらごめん。
個々において細かいことは沢山言えますが、例えばイデオンを想起させる・繰り返し出てくる描写について、しかしさらに進歩しているよ、などです。
けれどもそれらのことは、本編の放送が始まってから、少なくともDストアなどでの配信が始まってから語ればいいでしょう。
とりあえず、最高でした。
TV版そのままでいいから、全部スクリーンで見たいなあ。やっぱり良くも悪くも違う、スクリーンとTVでは。
さて、ツイッターで漏れたところで、感じた2、3の短い事柄です。
1、物語の余裕と言うべきか、懐・奥行きが深い。
富野の中では、もちろんプロットを決めて書き進んでいるはずなのですが。
例えば3話の途中まで、「ベルリが海賊側になっても」「アイーダがキャピタルに残っても」どちらでも、話が展開すると思いません?
正直ぼく、ifルートも見てみたい。
富野で知った言葉で言うと、「フレキシビリティ」のある物語構造だな、と感じました。これは、今回の作品で初めて感じたことです。
2、ぼくは以前、「『クンタラには外見に、それと分かるサインがあるのではないか』と夢想して」と書いたけれど、パンフに「その証として額に飾りをつけたり、帽子を被ったりしていた」と書いてあった! 当たった(自賛)。
ただぼくは、他のクンタラのキャラも証があると思って・そのように書いたけれども、ノレドのみの設定みたいです…
3、ララァ(ラライヤ)・マンディ、ヘルメス(エルメス)の薔薇の設計図、って言葉遊びを、半ば本気で提唱しておこう。
でも富野、ギャブレット・ギャブレーのように同じ名前のキャラを出しちゃうことすらあるので、まあハズれるよなあ、コレは…
4、ルインは思ったよりいい奴だった。
設定からは、もっとイヤな奴を想像していたんだけれど…
でもこの先、どうなるかは富野が舞台あいさつで喋っちゃったんだよね。
具体的な行動は分からないけれど。主人公に対して敵対行動をとるよね。
で、極端な例をあげれば、ジェリドのようにコロニーに毒ガス注入しようとしたり、鉄仮面のように「命令に従って虐殺する」って人間は、富野アニメにもこれまでいたじゃない?
富野、最近は言わなくなったけれど、アーレントの言葉を借りれば「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」ってやつですよね。ぼく読んでないから、あんまりこういうことは書かないほうがボロ出ないんだけれど。
ただちょっと逡巡は描かれていたけれど、基本はジェリドも鉄仮面も悪役だから、すでに「ジェノサイドをやりそうな」キャラとして出てきてた訳だよね、基本的には。
で、Gレコの前か? 富野がアーレントアーレント、全体主義、新作はアーレントのために、みたいなこと言ってたの。ROGの頃?
その設定は今も残っているところがあるはずだから、今回は「仲間だった人が悪役になっていく」展開は、あると思っていたのよ。
たぶん、多くの富野ファンがね。「誰がマスク被るんだ」的な。
ただぼくの考えていた、「敵になるキャラ」は。
富野がアーレントに強い影響を受けていて、ぼくのうっっっっっすい知識で言うと、アーレントっていえば「アイヒマンは、怪物的な悪の権化ではなく、思考の欠如した官僚」論だから、相手への想像力がない、つまらない人間だと思っていたんですよ。
でも、今回仮面をかぶる人間は、1~3話を見る限り、「あれっ思ったより思考の柔軟性がありそうだし、何よりベルリの心情を汲み取った発言をするじゃん!」ってビックリしたんですよね。
正直、富野の舞台発言のレポを読むまでは、「コイツが敵になるんじゃないのかな?」とまで思い直したのですが。
でも、そんな魅力的で優秀な人間さえ飲み込んでいくってところが、全体主義なんですかね。
アーレント、結局「映画で済まそう」と思っていたのにそれもスルーしちゃったし、1冊だけでも読まないとダメかな…
さて、『Gのレコンギスタ』(Gレコ)1話の感想・レビューです。留意しておくべき点なども。
OPは、まさかの本編映像多かったねー。
ちょっとガッカリだったけれど、本編では使われなかったカットが採用されたりもしたらしいので、まあいいのかな。
本編。序盤10分は以前に語っているので、特になし。
ぼくより、こちらのツイまとめを読んでいただければよろしいのではないでしょうか。
そういや1つ気になったことがあるんだけれど、この10分でルイン先輩とマニィが付き合っていることが提示されますよね。
で、富野のインタビューや設定で、ルインがクンタラであることは知っていたけれど、シャア専用ニュースさんの
「富野由悠季監督最新作『ガンダム Gのレコンギスタ』で使用されている専門用語「クンタラ」をあらためて詳しく説明する」
を読んでいたら、小杉Pがマニィもクンタラだと仰っているんですよ。
ええええええ。
いや勿論、クンタラ同士で付き合う・結婚するような暗黙の差別・風習がある世界だろうってのは、ぼくも想像していましたよ。
『招かれざる客』的な問題が起きるようなね。
でもぼくは、マニィってキャラはそんな因習や偏見関係なく、「ルインっていう人間が好きなの!」みたいな少女だと思っていたんですよね。
これがもしクンタラ同士なら。
彼氏がマスクを付けるなら、私は髪を切って戦う、って流れにはすんなり行きそうだな…と。EDを見て。思いました。
それと、今でも差別されているノレドは、でもベルリにアタックし続けているのは、どうしてだろうなあ…とまで飛躍しました。
それと、改めて。訓練生達と、色々な人達が混在している宇宙エレベーター内部の描写は、面白いなと感じました。
訓練している後ろで、乳児をあやしている母親とかいるんだよね。
続いて戦闘シーン。
「クラウンもケーブルも傷つけずにどうやる?! こうか!」と自問するシーンの背景(キラキラ)は、ちょっと特徴的でしたねー。
ララァが白鳥になるシーンを思い出したけれど、ぼくは。
戦闘シーンにはやや似合わないような背景で、そのギャップが面白かったです。
そして、ネット上でちょっと話題になっている? アイーダの「世界はー!」
に合わせて、レクテンの四角い顔がアップに映って、
「四角くないんだから!」は印象深いシーンですね。おそらく視聴者の間では、ブレンの「イエスだね!」と同じような扱いで語られていくのかなあ。
この「世界は四角くないんだから」については、ぼく、ツイッターで。
(富野が)何かのインタビューで、「それが『世界は四角くない』ってことですか?」「まさしくそうです」みたいなやり取りなかったっけ?
探しても見つからない。俺の気のせい?
と呟いたけれど、反応なかったので、やっぱり記憶違いだな…
で、顔を掴まれたG-セルフは、レクテンの腕を激しく殴るのですが。
ここの作画、おそらくわざと手描きっぽく・ちょっと荒々しく作画されていて、良かったなー。
その後、ルインとデレンセンが出撃。
レクテン、複座なんだよね。
ぼく、メカには全く興味ないので自信ないけれど、MAならともかくMSで複座って珍しくない?
ここでルインは、「溶接機がビームライフルになる裏マニュアル」と言います。
これって。作業用具と見せかけて、兵器にもなるってことでしょ。
つまりさー。キャピタル・ガードから軍隊にしようとする準備が、着実に進行しているってことだよね。
そしてG―セルフはビームサーベルを抜きます。
刃部分が細い! これは、富野と岡田さんの対談内容を思い出したなー。
太くて敵からはっきり見えたら兵器じゃない、みたいな。
で、ビームサーベルを使うことに、戦闘宙域にいる4人が、オーバーリアクションをします。
ベルリ「なんだってー!」
どうも、宇宙世紀とはビームサーベルの意味が違うようです。
この前に、ビームライフルぶっ放しているんだけれど…
傷つけてはいけないクラウンやワイヤーのそばで、「ビームサーベルのような強力な兵器」を使うのか、って驚きにも見える。
この前に、ビームライフルぶっ放しているんだけれど…(再び)
「スコードっ!」
これは作品内の宗教からですね。ベルリ、信者なのかな。
おそらく宗教は既得権益の隠れ蓑・方便になっているはずなので、先々ベルリの行動と信心が一致しなくなりそうだけれど。
ま、そのためには熱心な信者ではない方が、作劇的には都合良いはず。はたしてどういう設定なのか。
レクテンのパンチ対G-セルフのビームサーベル。
また荒々しいタッチで表現されているレクテンの「手」と、かつて富野が望んでいた通りの「斬る瞬間だけ刃が出る」ビームサーベル(これは過去作品でも登場しているけれど)。
痺れます。
で、アイーダへの尋問が始まります。
アイーダもレイハントンも「聞いたような名前」。
後に「レイハントンコード」って言葉も出てくるし、この世界では有名な人の名前、とかなんでしょうね。
で、ここで笑っちゃうのは、
「G―セルフ。あの機体のハッチは、他の人にはあきません」からの、
アッサリとベルリがあけるシーンですよね。
これは、
通販番組の「でも、お高いんでしょう?」とか、
熱湯風呂に身を乗り出した芸人さんが「押すなよ、押すなよ」とかと同じ、前フリですよね。
素直に面白かったのと、「ベタだな!」と、「アイーダのポンコツ伝説が始まっている!」と、全てが相まって良かったです。
そしてもう1つ、見逃せないのは。アイーダの髪の香りに触れるベルリくんですね。
ま、ぼくがこのシーンで連想したのは、もちろんこの歌ですね。
♪くんかくんかくんか
で、コックピットに座るベルリくんの目に、パネルから光線が向けられます。
2話で出てくる「アイリスサイン」ですね。
じゃあ、アイリスサインが感知されなかったラライヤは、なぜ冒頭でG-セルフを操縦できていたのか?
これが、ラライヤの正体につながる伏線ってヤツですね。
ここで1話終り。
EDについては、2話目感想の時に書こう…
最後に1話目と関係ないけれど、G-レコ関連でいくつか羅列します。
稲田徹さん、
「声優を始めてから、初めてじゃなかろうか?
自分が出てない作品を楽しんで観られるのは。」
とツイートなさっていたG―レコに出演なさるとは! 逆転HRですなあ。中原麻衣さんも出るし、これからも楽しみだ。
Gーレコの感想が面白いでもツマラナイでも何でも自由だけれど(もちろんぼくは否定するけれど)、「ガンダムらしくない」的な感想言っている人だけは心底ダサイ。バカ。時代遅れ。
そんな話、20年前のGガンダムで終っているわ。
次。ツイッターで「レクテン プラモ」と検索かけると、希望している方が結構いらっしゃる。
まあ最初のプラモ化ラインナップにレクテンが入っていないこと、不満に思う方もいらっしゃるだろうけれど、仕方ないかなー。
プラモ第1弾の種類数は決まっていて、そして・初動売り上げは絶対に良い数字を出さないとダメだと思うんだよね。
ターンエーは関連商品の売り上げが芳しくなくて、記録全集の発刊が途中で止まってしまったらしいですから…
だから、最初から本命リリースしないといけないから、ガンダム2機、セルフとアルケインは決定。
他のMSに比べると、比較的に「カッコ良さ」が分かりやすいモンテーロも当確。残り1枠、グリモア、カットシー、レクテンの中では、デザインだけで「受け」を考えたらグリモア、ってなるかなあ。
レクテンの位置づけは、戦闘用MSではなくて、宇宙世紀に置き換えると・ちょっと言い過ぎかもしれないけれどプチ・モビ的な扱いだからね。
担当の方も、それを第1弾のラインナップには加えられなかったと思うよ。
ぼくは何回も書いているけれども、ロボットの魅力って「デザイン半分・劇中での描写半分」だと思うんだよね。
レクテンは、担当者が想像していたより劇中で「ハネた」ってところですね。
ま、キット化されるでしょう、これは。たぶん。戦闘仕様レクテンのレックスノーが登場控えているので、断言できないけれど…
G-レコの、7話までの各話タイトルが判明しましたね。
1話~3話までは
『謎のモビルスーツ』
『G-セルフ起動!』
『モンテーロの圧力』
「シャア専用ブログ@アクシズ」さんによると、4話~7話は
『カットシー乱舞』
『敵はキャピタル・アーミィ』
『強敵、デレンセン!』
『マスク部隊の強襲』
となっております。
必ず固有名詞(「マスク部隊」もね)が入っているのは、わざとだよね。
キャラクターに固有名詞を連呼させて・視聴者にその名前を覚えさせるのは基本技術の1つだと思うけれども、サブタイもそんな意図かな。
ガンダムの時代から「灼熱のアッザム・リーダー」とか、キンゲでも「鉄道王キッズ・ムント」「リオンネッターの悪夢」なんてあったけれども、今回は(今までのところ)全部そうだからな。
OPの歌詞もその意図があるらしいけれども、「分かりやすいように」とはしているんだよなあ。こういうところでは。
さて。2話目のおさらい、いきましょう。
冒頭におけるジジイの意味ありげなセリフはスルーしておいて、まずはラライヤが「ボンボン」を無邪気に振るシーンが目をひきました。
あれ、震えて意味不明なセリフ言うだけのキャラじゃないんだ。
で、そこに現れた法皇様が、ノレドのフルネームを知っていることが驚きですよね。
ノレドは一介の少女で、しかもハイソサエティの娘でもなくクンタラなのですから。
まあぼくは、例えば『赤毛のアン』でプリンスエドワード島に住む人々が全員知り合いのように、人口が少ない舞台なのだろう、と解釈しました。
それか、ベルリ(運行長官の息子)の周辺にいる少女だから、知っているのか。
で、警備しているベルリとルインが会話をします。
ルイン「オマエさ、囚人の塔に入れられている女海賊を助けたいんだろ?」
おそらく、将来敵になる先輩ですが、ちゃんと他人の心情を汲める・良い人間なんですよね。
ここで母親登場。
「あら、かり出されたのね」
肩に手を回されて、ベルリはちょっと嫌な顔をします。
ぼくのような富野ファンが「いいなあ」って思っちゃうのは、ここらへんの細かい芝居なんだよね。
思春期の・またはかつて思春期だった男性にとっては、友達や同年代の知人の前で、母親に肩を抱かれたらどんな気持ちになるか、ベルリが何故嫌な表情を見せたのか、説明不要でしょう。
で、ここでもルインは、ちゃんと顔をそらして、「見ないであげる」んだよ。いい奴じゃん! マスクなんてかぶるな!
そこへ、キャピタル・ガードの調査部大佐、クンパ・ルシータが現れます。
劇場で先行上映を見た時に、ぼくは母親とルシータの関係が怪しいな、と思ったんです。
今回見ると、その理由は。
ルシータが海賊を捕まえたベルリを褒めたのに対し、母親は「偶然でしょう」と謙遜します。
その時、左手を右の頬に持っていって、シナを作るは言いすぎだけれど、ポーズを取るんだよね。
この仕草に、「コイツ母親とは言っても、まだ女だな」と感じさせるものがあるんですよ。
その後、母親は来賓にルシータを紹介しようとします。が、ルシータはそれを無視して法皇の元へ行きます。
ルシータはキャピタル・アーミィの創設に裏から糸を引いていますが、法皇も1枚噛んでいる、ってことでしょう。
ポンコツ…否、麗しのアイーダを取り返すため(念のため・ぼくはアイーダ推しだよ)宇宙海賊が登場。
「いーっ」と驚くノレドの表情、今までの富野ガンダムでは絶対に見られない顔だよなあ。
海賊MS・グリモアが撃つライフル、実弾のマシンガンとビームライフルを撃ち分けられるタイプかと思っていたけれど、今回見直すとビームの光跡がちょっとおかしいんだよね。
プラモの仕様を見てみたら、ビームライフルじゃなくて・あれビーム・ワイヤーだな多分。
メカに乗ったまま運河を飛び越えるベルリとルイン。
これを見て、後続のマニィも運河を跳びます。
「女の力でぇー!」
ここでのマニィの行動は、おそらく後に彼女が何らかの行動を取る際の、説得力とか伏線みたいなものになります。
彼女が戦うことになっても、「いざとなったら勢いで運河を跳び越えるくらいの度胸のある少女だから、これくらいはするよなあ」と視聴者が思い出すことになるはずのシーンです。
ちなみにおっさんのぼくとしては、ここでザブングルを思い出しました。
ザブングルではまだ歪だった、『コナン』…と言っても探偵じゃないよ・シュワちゃんの古い映画でもないよ、富野なりの『コナン』の身体性、みたいなものを遂にこんな形で表現したなあ、と感慨深くなりました。
囚人の塔に入るベルリ達。
アイーダの名を呼ぶベルリに、ノレドがムッとします。
女性の勘はするどい!
やがて、ベッドにぶら下がった(おかしな言葉だ)アイーダさん登場。
(胸元にはおそらく識別標識が付いた)囚人服を着たヒロインです。
ベットにしがみついたアイーダのお尻目掛けて、ノレドがパチンコを撃ちます。
このシーンさあ。
富野のSM趣味が出ている、と感じるのはぼくだけ? いや、出ているよなあ。
背中がちょっとはだけていて、太腿も見えて、しかも高所から落ちかけている女の尻をパチンコで撃つんだよ。
ここは間違いなく、エロティシズムを出そうとしているよね。
富野はGレコについて、インタビューで「アニメ・コミック慣れしている人たちのセクシュアリティーに対する感度、感覚を、全否定する。言い換えれば全肯定する」と言っていたけれど。
このシーンが念頭にあったのかな。
ま、ぼくはここ好きです。もうちょっとパチンコを撃っても良かった。S気強し。
直後の、アイーダのお尻と・ノレドが1つの画面におさまっているレイアウトも面白いけれど。
話は進んで、この後にもう1回、G-セルフの操縦席に取り付こうとする際に、アイーダの素肌(背中)が見えます。
このシーンについて、ベルリ役の石井マークさんはどこかのインタビューで「ちょっとアイーダの背中が見えちゃったという演技をしたら、富野監督から死ぬかもしれないんだからそんな気持ちにはならない、とダメだしされた」といった趣旨の答えをしていたけれど。
視聴者には、そんな気持ちにさせようとしているシーンだよな。
で、この後、過去作品のモビルスーツが展示されている場所が出てきます。
ここの感想で、「MSに彩色しておいて欲しかった」って意見をネット上で見かけたけれど、いやいやいや。
過去作のモビルスーツが白黒なのは、「それくらい歴史が経過している」って設定以上に、もっと意味を感じちゃうけれどね、ぼくは。
過去のモビルスーツ(作品)なんて、白黒でいいんだよ。Gレコは子ども達に向けた作品なんだからさ。
Gーセルフを視界にとらえるカーヒル。
それまで互いに「カーヒル大尉」「アイーダさま・姫様」と呼んでいたのに、出会ったことで2人の呼び名が変わります。
「アイーダ! 姫様!」 「カーヒル!」
実際に恋人関係だったかはともかく、2人とも(特にカーヒルが)互いを憎からず思っていたことは、この短いやりとりで分かります。
まあ、次の回では、もうアイーダ立ち直っているようだけれどね。
アイーダがハッチにしがみついている事を知らないカーヒルは、グリモア流星拳を放ちます。カーヒル・セイントだけに…(ツイッターでも呟いたのに再び)。
「仲間を殺すのか!」と勘違いしたベルリくんの感情に反応したように、G-セルフから赤いオーラ的なものが…
なんだあ、コレは。ひょっとしてサイコミュ持ち?
カーヒル、あっけなく死亡。
ビームライフルを撃った後の、反動で後ずさりするG-セルフの足、また手描きっぽい荒いタッチだったなー。あの作画処理、戦闘シーンの迫力が増して好き。
この後、ベルリとアイーダのやり取りがあって、2話は終り。
EDについては、短く別の項を設けてちょっと話そう。
えー、よろしければ、ひと時お付き合いください。
ツイッターは色々便利なところがあって、安田朗さんと形部一平さんのGレコ関連ツイートを、まとめた人がいます。
togetter便利。
あと公式ツイッターが、劇中の世界情勢の説明と第1話の流れを説明した図を公開しています。
このツイートへのリプやRT数・お気に入り数を見ると、やっぱり一定の需要があるのかなー。こういう説明。
リプの中には、「1話でG-セルフを海賊が回収したことに気付かなかった」って意見がいくつかあって、これはぼくもでした。
こんなブログやっているのに、G-セルフが2機あるのか? みたいなことを書いてしまいましたからね。
あのシーン、MSの違い=勢力の違いなんだけれど、事前の知識入れてなかったので・そこが分からず。
セリフをちゃんと咀嚼したら、分かるっちゃ分かる気もするけれど。
さて、3話総括の感想は後日に回すとして、この回といえばなんと言っても。
ジャベリンありがとうね、ではなく。アイーダがくるくる踊りながら出てくるシーンですよね。
このシーン、「やっぱり富野は意味分からねーな」とか「富野らしいエキセントリックな演出だな」って言っちゃうこともできるんですけれど、アイーダの心情を踏まえた上での演出だと思うですよね。
ぼくが彼女の魅力、意地っ張りな部分を説明する! このままでは、ヒロインの座が…
なんだろ。
例えば『あの夏で待ってる』では、ヒロインのメガネ先輩より、不憫な谷川の方に人気が集まったじゃない?
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G-レコでもなんだか、健気に頑張っているノレドに人気が集まりそうな気が。
あかんで。
で、件のシーンですよ。アイーダ様の踊り。
その前にまず、アイーダを尋問していたルシータのところに、ベルリが訪問してきた知らせが入ります。
ベルリの名前を聞いて、彼女は目を閉じてお茶を飲みます。
これは、落ち着いて、思案しているのです。
ベルリも尋問を受けに来た。しかし、早朝に。なぜ来たのか?
彼女はおそらく、ベルリの好意に気付いているのです。
「自分の様子を心配して見に来たのだ、カーヒルを殺したあの少年が」とアイーダが考えているとすれば、後の行動に矛盾はありません。
(愛しの)カーヒルを殺した少年の好意や心配は、無下にしたいのです。
少年の思い通りにはさせたくないのです。
ベルリは、アイーダがどのような尋問を受けているのか心配で、ルシーパに呼ばれたことをこれ幸いに・我慢しきれず朝早くから訪問しました。
アイーダはそれを踏まえた上で、
オマエの心配なんか必要ない、その証拠に尋問も厳しくない、杞憂だ、とベルリに知らしめたいのです。
その高らかな宣言として、
優雅に踊って登場するのです。
尋問と・ものすごくかけ離れている「踊り」をすることにより、ベルリの好意を拒絶しているのです。
その証拠に、アイーダ様は直後におっしゃっているではありませんか。
「大佐は紳士でいらしゃいます。ご心配なく」
裏返せば、「あなたは私を心配して来たんでしょ? でも大佐は紳士でいらっしゃいます(カーヒルを殺したあなたとは違って)」
この時のアイーダ様の表情と、何より嶋村さんの演技を聞いたら、おそらくぼくの読みは大ハズレはしていないだろう、と自惚れているのですが、いかがでしょう?
でもアイーダ様の抜けている(魅力的な)ところは、その後結局、拒絶しきれずにベルリくんと言い争いしちゃうところですよね。
これがアニメのお約束ではない、リアルなツンデレ…
関西圏では今、4話が放送されているというのに、ぼくはやっと3話の感想。今回もよろしくお願い致します。
G-セルフをどこが引き取るか、ベッカー大尉(キャピタル・アーミー)とルシータ大佐(調査部)の間でチョイとしたいざこざが起きます。
ただ、ベッカー大尉が後で吐き捨てるように、ルシータはキャピタル・アーミー創設の黒幕でもあるので、ちょっとややこしい構図になっています。
まあ多分、ルシータは軍が発足しても文民統制=シビリアン・コントロールはしっかりしたい、調査部の下にキャピタル・アーミーを位置づけたい思惑がある、と捉えるのが素直な見方かな。
このシーンではもう1つ、大尉が大佐にタメ口以上の口のきき方をしているので、宇宙世紀の軍ほどには、しっかりとした規律がないのかな、とも想像できます。
さて続いて、ベッカー大尉がルイン・リーをキャピタル・アーミーに勧誘します。
ルインがクンタラであることを侮蔑するベッカー。
わざと相手の劣等感を刺激して、反応を見る。
圧迫面接に似ている気もしますが、ぼくは映画『アンタッチャブル』での、ショーン・コネリーがアンディ・ガルシアを面接するシーンを思い出しましたね。
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ショーン・コネリーがわざと侮蔑的なことをアンディ・ガルシアに言って、逆らってくる気骨のある男か試したのでした。
まあ今回のシーンは逆で、ルインはクンタラであることを差別されても逆上せず、顔面に放たれたベッカーのストレート・パンチをヒョイとかわし、しかも腹部は両手でしっかりガードするのでした。
この時、驚くマニィと、平静に見守っているデレンセンの対比も良いです。
シャンクに縛り付けられているのに、眠りこけているアイーダ様。姫、案外と神経図太いな…
港に着き、ルシータにあいさつするベルリ。その肩越しに、連行されるアイーダが見えて、目線で追います。
「ベル!」
その細かい動きをすかさず咎めるノレド。
ベルリ大好きノレドちゃん。
次の画面、ビグローバー(キャピタル・テリトリィ内にあるキャピタル・タワーの地上施設)の大きさを見せながら、シャンクに乗っているベル&ノレドを描いています。
まあ、ここら辺の大きさ対比は、富野アニメではお馴染みといいますか、十八番といいますか…
続いて2人は、ビグローバー内にあるウィルミット・ゼナム(ベルの母親)の執務室に行きます。
この前に、ベルリはノレドに「家に帰りな!」と言い、ノレドは当たり前のようにその言葉を無視して追いかけます。
そして追ってくるノレド・自分の言葉に反したノレドに、ベルリは何もリアクションを取りません。
これを「おかしな演出!」と取るか、「それぞれのキャラクターが生きているなあ」と取るか、あなたはどっち?
さて執務室のカットのしょっぱなに、放送前から話題になっていた「カバの頭の剥製」が見えます。
このカバは「ウィルの性格を表すために必須」らしいですが、どんな性格なんだ…
ただファーストカットから描くと言うことは、スタッフ(たぶん富野)はよほどこだわりがあるのでしょう。
「外国のタブー破りのスパイなんかの…」
ノレドがウィルミットに話しかけます。
が、このシーンのノレド、ちょっと巨乳になってない? ダブルヒロイン(え? ラライヤって誰?)は巨乳と微乳の対比じゃないのかよ! オマエまで巨乳になってどうするんだ。
それよりここでの問題は、ウィルミットはノレドの顔を知らなかった、ということ。法皇様はノレドを知っているのに。
別な方が指摘しているが、ゲル・トリメデストス・ナグ(法皇様)とノレド・ナグ、同じ「ナグ」なのは偶然ではないのか…
『ザブングル』と『エルガイム』で全く同じ名前のキャラクター(ギャブレット・ギャブレー)を出しちゃった富野作品だから、「ナグ」は偶然の可能性もあると思っていたけれど。
何らかの関係はあるのかな。前回に続き、この回でもノレドと法皇を挨拶させているし。
伏線というか、撒き餌というか、まあ何らかの設定を将来明かすための「準備」でしょうか。
あとこのシーン、本来はベル、ノレド、ウィルミットの3人だけでいいはずなのに、ボディーガードっぽい男を立たせているんだよね。
ここら辺が情報多いというか、芸の細かいところ。
一言も発さないのに、「剣呑な男なんだろうな」と一発で分かるキャラデザもさすが。
「(ノベルを)ベルリがキャピタル・ガードに入ったらプレゼントするつもりなんだけど…」
ここまで言って、視線を床に落とすノレド。
これはもう、ノレドは何かを感じ取っている描写なのかな。
軽くケガをしているノレドの手を見たウィルミット、「とがめるといけない」。
「とがめる」は埼玉方面の方言で、「化膿する」の意味らしいです。
この時、ベルリが母親の愛情を感じて嬉しそうな表情をするのが印象的です。
次のシーンで、戦艦メガ・ファウナが初登場。
アメリア軍が宇宙進出のために建造した航宙艦で、海賊部隊の母艦として運用されています。
そして3話の主人公、クリム・ニックくん(短くして、ニッくん)も初登場!
ここで流れる・どこかユーモラスなBGM、ニッくん専用の音楽だといいなあ。
「本国から来た」ってことは、つまり現在で言うと北米から戻ってきて、すぐに南米に出撃するってことですね。
出撃時に描かれるMSと人物の大きさ対比、ここら辺は本当に富野作品は巧みです。
これですね。
MSの大きさがなんとなーく分かります。
さてここで、ニッくんとやり合う艦長のドニエル・トスから、気になる名前が出ます。
「スルガン総監」
アイーダの名前はアイーダ・スルガン…同じ姓、娘ですかね。
あれ、これだけ書いたのに、本編まだ7分しか経ってない! スピード上げる。
ノレドも結局、執務室に泊まりました。
テーブル上には皿とコップが2組ずつあるから、ベルといっしょに食事を取って、ソファに寝た。
ベルはどこに寝たのか…
母親が息子のガールフレンドを、自宅ではないにしろ泊めるってのは特別な感情(大体は悪い感情)があるはずで、だからこそ「ベルリがどこに寝たのか」はしっかり描写して欲しかったと思います。
シャンクに乗ってルシータの元へ行く2人。
ノレド「あの女を見送った時、好きになったんだろ!」
ここの寿さん、いいじゃん!
アイーダが踊って登場する理由は、前回書きました。おかげさまで好評いただけたようで…
しかし前回は囚人服、今回の服もなんだ…?
姫様にふさわしい服は、いつ与えられるのか。
次、ラライヤが抱きついて来た時の、ノレド「どした?! どした?」の言い方も好みです。
いや今回の寿さん、かなり耳に残る。
ニッくんが南米に向かうまでに、色んな動物が出てきます。
『イデオン』を思い出す富野ファンもいるでしょうが、今回の方が意味を持っている、と思います。
何故なら『イデオン』の時は単なる息抜き、それ以上の意味はありませんでした。
でも今回の動物描写は、「宇宙世紀の疲弊を乗り越えて、自然がかなり回復している、生態系も大丈夫そうだ」というのが伝わってくるからです。
おいおい、ここでやっとAパート終りか。
Bパートはまず、キャピタル・アーミーへの参加募集のデカイ幕が目に付きますね。
アーミー設立の準備が着々と進んでいることも、でも人材がまだ不足していることも分かるからです。
続いてベルがノレドのお尻を触るシーン。
残念ながらノレド、今のところだけれど脈ないねー。だってベルリ、「お尻を触っている」ことを全く意識していないんだもん。
好きな女の子のを触っていたら、あの表情・動作ではないよ。
それから、モンテーロvsレックスノー。
やや膝を曲げた姿勢で、モーター音を響かせながら密林地帯を進む緑の機体(レックスノー)を見た時、「ガンダムにボトムズのATが」と思ったのはぼくだけか?
カットシーがやられて、その閃光がG-セルフのコックピットにいるノレドとベルリを照らします。
この時の作画に、太い・黒い効果線が入ります。
この描写、アニメ内容のダイナミズムと相乗効果を生み出している気がして、ぼくは好きです。
「アニメ(絵)を見ているな」って実感もあるし。
この後の出撃時、朝日に照らされて影が強調されているG-セルフの「顔」もいい。
デレンセンvsニッくん。
この戦闘の合間に挟まる、ベルとアイーダのやり取りでしょ。特筆すべきは。
右から左、上方から下方に向かって「離陸、上昇でしょ!」とベルリ。
左から右、下方から上方に向かって「分かってますって!」とアイーダ。
もう「『映像の原則』では」とかは書きません。
ただ、このシーンを描きたいがために、ベルを機体から落とそうとしてまでこの位置に立たせたのではないか、と考えてしまいました。
しかもコックピット位置に立たせていたからこそ、この後ベルとケルベスを会話させることも出来るんだよね。
ウマイよなあ。
学生に「ランディング」「車輪、車輪」と促されるケルベスはどーよ、と思いますが…
母親はルシータとの電話で、アメリアにはフォトン・バッテリーを供給しない罰を口にします。
ま、ここら辺が、富野が「子どもに見せたい」ってところの1つでしょ。多分。現実とたやすくリンクさせられるから。
一方、G―セルフはなぜかコックピット開けっ放しで飛行中。
キャピタル・タワーに傷つけていないことを確認するアイーダのセリフに、ベルはちょっと不愉快な顔をします。
「オマエラが仕掛けてきたのに、キレイごとを」ってことですよね。
髪を整えるアイーダ様。可愛いよアイーダ。
そしてリギルド・センチュリー時代の音姫ことハイフン・スタッカートを流しながら排便して終り、と。
ぼく、女の子3人に囲まれて排便なんて出来ないよ…照れ屋さんだから、いっそのこと漏らしちゃった方が…
人間は2つのタイプに分けられる。
好きな女の子の前でも排便できる人間と、我慢したあげく漏らしてしまう最悪の結果を迎える人間だ。
ぼくは後者ですね。
さて、関西圏では5話が放送された本日、Gレコ4話感想です。
海賊のアジトに着いたベル。ちょっとクリム・ニック(ニッくん)に悪戯されつつも、G-セルフから降ります。
ワイヤーを使ってG-セルフから降りてくるアイーダ。
吉田健一さんは「アイーダが上から降りてくるアオリのカット、描いた。地味だけど難しいのよ。」とツイートなさっていましたが、いやいや、地味どころか・かなり目を引きますよ。
最後のサービスカットより、こちらにエロティシズムを感じるはずですよ、アニメファンなら。たぶん。
だって、女性が着替えているところは実際に見られる機会があるかもしれないけれど、巨乳の女の子が降下してくるのを真下から見られるなんて、アニメ特有のアングルでしょ。
こ・れ・が。2次元ならではの。
で、問題が次のシーンですよね。
アイーダはベルをチラと一瞥してから、ドニエル艦長に泣き付きます。 ベルの「えっ」というような短い驚きの声も入る。
ここねー。
ぼくは最初、ベルに見せ付けるための嘘泣きかな、と思ったんだけれど。
ただこの後、別なシーンでもアイーダ様は涙ぐむので、本当に泣いているんだろうね。
泣き虫なんだよ、アイーダは。
まあでも、ベルの前で泣いてやる、って意識は間違いなくあったと思う。
で、謝るアイーダに対する艦長の言葉が。
「自分の判断『も』甘かったのです。反省しています。アイーダ様をあてにしすぎました」
これを素直に言うと、「俺も悪かったかもしれないけれど、カーヒルが甘かったね。アイーダ様も思ったほど役にたたないし」。
ま、こんなところでしょう。「お辛いでしょう」とか言ってますけれど、内心はめんどくせーなとか、そんなものだと汲み取れます。
続いてキャピタル・アーミーの式典です。
ベッカー大尉がMSの手の上で演説しています。
「あのクラウンでは地上監視用の長距離レーダーを運ばせて、第1ナットで使うことにした」
誇らしげに言っていますが、これは実はナカナカのことです。
そもそもキャピタル・タワーは宇宙から得た物資を地上に運ぶための存在、つまりは人類全体のために必要な施設なわけですが、それにキャピタル・アーミーは軍事的な意味を持たせようとしているわけです。
ここでルイン先輩は、来賓席の動きに気をとられて、余所見をしています。
この描写なー。
この大事な流れを・余所見なんかしちゃって気にとめないから、マスクをかぶることになっちゃうんだよ、ってのは考えすぎかな。
デレンセン出撃。聴衆が沢山います。
ルインに近寄ってきて、しなだれかかりながら話しかけるマニィ。なんかマニィは、1話でぼくが想像していたキャラと違うな…
キャピタル・タワーの運行長官ウィルミット(ベルの母親)と、調査部大佐クンパ・ルシータが会話。
ウィルミットはどうも、法皇(あるいはスコード教)に忠実なようです。
しかし、クンパ大佐の方が一枚上手。今回の出撃は、ベル達の救出であることを盾にします。
前回、ザルみたいな警備+無抵抗でアイーダを逃がしたのは、もちろん策略です。G-セルフの場所を教えたのも、ベルをアイーダがいる場所に呼び出したのも、クンパ大佐だからね。
軍を動かして、既成事実を作りたいがための策略です。
我ながら口が悪いなー。
不可解に思った箇所でも、のちに分かる場合があります。
この後のカットシーがエフラグ(ドダイみたいなやつ)に垂直に飛び乗るシーン、「おおっスゴイけど無駄な動き」っていうね。
パフォーマンスですよね。
明示されていないけれど、スコード教の教えもあるし、ひょっとしてキャピタル・テリトリィにおいてはこれが初めての「防衛ではない戦闘」じゃないだろうか。
しかし疑問を持たず、養成学校の生徒達はみんな手を振ったりして見送ります。
実はここ、見ようによると怖いシーンかも。
一方次は、食事をしているベルとノレド。
前回に続いて申し訳ないけれど、ノレドやっぱり乳あるな…貧乳ってのはぼくの思い込みか。
新鮮な油を使っているから、食材は何か分からないけれどキレイな揚げ物。その丸い揚げ物を、ノレドは正しい箸の持ち方で、しっかり掴んでいます。
富野ガンダムで、箸出たの初めてかも。
ベルとドニエル艦長は、互いの情報を探ろうとしているので、会話になりません。
別の視点で見ると、話に乗ったふりをして情報を引き出すことも出来ない、2人とも「尋問・会話誘導はヘタ」って結論になります。
アイーダが入ってきて、ドニエルに「(今回の失態を)父には言わせませんから」と言います。
最初の時もそうですが、この2人、どうにも芝居がかっています。つまり「気の置けない」間柄ではないってことです。
その証拠が、この時のノレドの表情。
ノレドはアイーダが嫌いだからだけではなく、三文芝居にしらけているから、あの表情なのです。
アイーダ「この少年を、海賊の法律で裁きましょう!」
一緒に見ていたカミさんは、「姫様は情緒不安定なのかな?」と言っていましたが。
まあメンタルもちょっと不安だけれど(このままだったらぼく、ご高説を垂れながら海賊しているアイーダから→ノレドに転向しちゃうよ、転向派になっちゃうよ)。
ここで「海賊の法律で」と言い出したのは、もちろん意趣返しですよ。
アイーダはキャピタルに捕まっている間、捕虜の正当な権利を要求して、「海賊なのでしょう?」といなされている訳ですから。
2度も。
ニッくん登場。ここら辺はいいでしょ。
ただまあアレだよ、「最初の印象はサイアク」のラブコメパターンでいくと、ニッくんとノレドにフラグ立ったかも知れんで。
頭の上にハートの旗が見えているかもよ。
アイーダの回想スタート。
背景が変わって、モノローグであること・時間の流れが主観的になることが提示されます。
個人的に、4話で唯一のちょっとした不満は、この「背景変わってモノローグ描写」が3回もあることだなー(戦闘中のニッくんと、ベルの「3面同時!」)。
ちょっと多くて・くどく感じました。
ここで、1話の冒頭がもう1度流れるんだけれど、ちょっと古臭い・昔のフィルムに見えるような処理をしているよね。わざと画面に傷まで入れてる。
この効果、どうやってしているんだろう。スタッフのどなたか、いずれムックとかで説明してくれないかな…
回想シーン。
思ったことは、
「カーヒルとの思い出があんな初々しいものなら、この2人ヤッてないね」
「その2人を見たニッくんの反応、アイーダに好意があるような素振りじゃね?」
「特にカーヒルは視線を外しているので、ニッくんとの仲はよろしくない」
くらいかな。
また泣くアイーダ。4話までに4回泣いておる。泣き虫セシリアより泣き虫じゃね?
Aパート終了。
この記事書き始めてから1時間半経過。今午前3時。スピードアップ。
Bパートスタート。
カットシー部隊が進む洋上は快晴ですが・その奥、厚い雲の下は雨天になっています。
その地方の天候を描写しているんだろうね。作画面倒くさそう。
EDに出てくる金魚鉢が登場。
ミノフスキー粒子散布、戦闘開始。
艦長席には、戦闘機のノーズアートみたいな絵が一瞬見えます。
ドニエル艦長の趣味かな…
アダム・スミスってキャラの名前はスルーしましょうね。
アルケインにパックパックが付いていなかったため、アイーダは支援に回ります。
何もしていないって言うな! アルケインは長距離支援タイプだろうから、艦から援護を、援護を…
敬礼して出発するベル。
「あの子…」と呟くアイーダ。の後ろ、全天モニターから見える雲が、いいスピードで動いているんだよね。絵、動くなー。
さて、ここで覚えておいて下さい。
戦艦の移動に驚いているのでしょう、カモメが鳴きながら逃げています。
♪ハーバーライトが朝日に変わる~
あ、今のいらねーな。後でこのカモメ、活きてきます。
ニッくん「低空から来るのは、お見通しである!」
皆さん、こういうキャラクターを何と言うか、ご存知ですね。
そうです、「噛ませ犬」です。
ニッくんもいずれ「ベルリ、俺はお前の噛ませ犬じゃない」と言い出すかもしれませんが。くだらない洒落はともかく、明らかにベルリを引き立てる役割です。
自称天才に対し、飛び級している真の天才ベルリくんは「違う! エフラグで来るなら、上からだ!」
対比により、ベルの読みの正確さが分かる、と。
ベルはデレンセンに呼びかけますが、ミノフスキー粒子のせいで声が届きません。
接触回線で会話できるようになりますが、そこにニッくんの邪魔が入ります。戦闘。
顔だけ振り向いた、敵にトドメを刺すには珍しい構図でデレンセン、
「チェストー!」
あ、チェストの意味が分からない人は、ソフトバンクホークスのファンにでも聞いてください。
カットシーのビームサーベルの刃は、ほとんど見えない!
これはおそらく、「秘密兵器」だからです。別に頁を設けて、後日書きます。
ニッくん撤退。
ベルはモンテーロのジャベリンをキャッチし、前回見たニッくんの技を真似ます。
ジャベリンを回転させて、ミサイルを防ぐ!
「戦うだけか!」とベルが叫んだ直後に。
今は味方になっている海賊側のグリモアがカットシーを落とす(しかも背後から後頭部を撃ち抜く)のは、このセリフの無力さを表しているんだろう。
カットシーに囲まれるG-セルフ。
ベルリ「3面同時!」
敵の機体は3体だけれど、攻撃は4方向。ビームサーベル×1、脚部のビームサーベル×2、ビームライフル×1。
「スコードっ!」のかけ声と共に、G-セルフは不思議パワーを出します。
ぼくはどうしても、トリトンの「オーリハールコーン」を連想してしまう…
そして、ちょっと謎を解くヒントになりそうなのが、次のシーンです。
すぐそばにビームサーベルがあるのに、カモメは優雅に飛んでいるのです。
野生の鳥も危機を察知できないほどの武器、って描写なのかな、と。
デレンセンの「あのビームサーベルも何だっていうんだ!」は、これにかかっている、とも思うのですが。
ただこの作品では「ビームサーベル」が特別な意味を持っているようなので、断言できません…
それに、確かにカモメは優雅に飛んでいるのですが、近くではミサイルの爆発が起こっているので、激しい戦闘と優雅なカモメ、単なるコントラプンクトなのかなあ。
ニッくんが言う「撤退の判断がいい指揮官は優れている」は、映画版か小説か忘れたけれど、『逆襲のシャア』でもアムロがレズンを評して言っているよね。
G-セルフにまだ武装・性能がありそうなことがチョイ出しされて、さて次回。
次はマスク登場。
この楽しい物語世界、みんなで満喫しましょう。
※DVD・Blu-rayで見た方はこの記事「?」でしょうが(いや当時から「当たっている」より花火を打ち上げる気持ちはあったのですが)、本放送バージョンでは該当シーンではもっとスリスリしていたのです。それがパッケージ版では修正されたのです…
Gレコが始まる前に、「ブログを更新するのは放映直後にしようか、それとも自分の中で咀嚼してから記事にしようか」みたいなことをつらつらと書いたけれど、自分の根性のなさを忘れていた。
速攻で記事アップなんて無理無理。
今はまだBS放送から5日遅れくらいですんでいるけれど、その内2~3週遅れになるで。
さて、5話です。関西圏では、もう今日6話放送だけれど…(コレ毎回書いているな)。
冒頭、「アーミーカラー」に塗られているクラウン。
チアガール達が「世界を守れ、キャピタル・アーミー!」とエルフ・ブルックの勇姿を称えています。
あーあ。あっさりこの状態になっちゃったな。
前々回の記事で、
明示されていないけれど、スコード教の教えもあるし、ひょっとしてキャピタル・テリトリィにおいてはこれが初めての「防衛ではない戦闘」じゃないだろうか。
しかし疑問を持たず、養成学校の生徒達はみんな手を振ったりして見送ります。
実はここ、見ようによると怖いシーンかも。
と書いたけれども、随分と「戦争」に近づいてしまいました。
覚えているでしょうか?
第4話でマニィは、
「こんなアーミーになってたなんて知ってた?」、嫌悪感を浮かべた表情で「軍隊だって言うんだよ?」
と言っていたのです。
1話跨いでいることで・劇中の時間を少し飛ばしてはいますが、それでも短時間のうちに、彼ら・彼女達は戦争に疑問を持たなくなっています。
だからこそ今後おそらく、海賊側にいるベルやノレドとは意思の疎通ができなくなるのでしょうが…
まあここらへんはやはり、富野が数年前に何度も口にしていたハンナ・アーレントの影響で生まれた描写なのかな。
「裁判でアーレントが見た(ブログ主注・ナチスの)アイヒマンは、怪物的な悪の権化ではけっしてなく、思考の欠如した官僚でした。」「ナチスによって行われた巨悪な犯罪が、悪魔のような人物ではなく、思考の欠如した人間によって担われた、と彼女は考えました。」
ってことを表現している気がします。
だからこそ、マスクには「短期間で精神的に強化された、強化人間みたいなもの」という設定を入れないで欲しかったんだけれど。
「あんなに良かった先輩が、自然に・いつの間にか」って方が良かったなー。
しかし、富野作品で「平和だった世界がいつの間にか戦争に向かっていく状況」を描いた中では、今回が一番空恐ろしさを感じられて好きです。
もともと、富野は「状況」に主人公を放り込む手法をとっており、だからこそ初期の作品はほとんど「戦争状態」からスタートしていたわけですが。
それが『F91』から変わり始めて、『∀』でしっかりと描かれました。
でも今回のGレコが、一番良いと思います。
非常にヘタクソな言い方ですが、人物が「変わっていないのに変わっている」からです。
これは、マニィの功績大です。
ちなみにマニィ達が「エルフ・ブルックーっ!」と言っている時に、後ろに帽子を目深にかぶった男がいるんだけれど、アイツただのモブかな? 扇動者というか、チアガールを動かしている奴じゃないのかな?
さて、続いてクンパ・ルシータ大佐が登場。やはり食えない男です。
高度なテクノロジー(MSの設計図?)が記された「ヘルメスの薔薇の設計図」の話を持ち出したジュガン・マインストロン(キャピタル・アーミィ司令官)に対しては、宗教のタブーと予算を出して牽制し、一方ウィルミットには(ウィルミットが来たら、ジュガンは目をそらす!)「あなたの息子救出のため」と押さえつける。
つまりは、「軍隊は作りたい、しかし調査部の影響下に置く」狙いでしょう。
場面は海賊側へ。
神出鬼没なベル、はいいとして、「チュチュミィ」のたった一言でラライヤのキャラがキマッたなー。これは本当、一言のセリフが持つ力だよね。
巨乳の金髪登場にムッとするノレド。金髪さんの名前がミック・ジャガーと似て蝶なのはスルーしよう。
やきもちを焼くノレドは可愛い。いかん、またノレドの人気が出てしまう。アイーダ負けちゃうよ。
それとぼく、Gレコの感想書くたびに「巨乳」って言葉を入れ込んでいる気がするな。イヤだな。ぼく上品な人間なのに…
ベル、色々質問しているのは、敵情視察・スパイのつもりなんでしょう。
そしてアイーダはベルから顔を逸らしっ放し。
この2人、本当に距離が縮まるのか?
メガファウナのブリッジで、カーヒルの作戦案を話し出すアイーダ。
この時、操舵士の女性が、チラッとアイーダを見ています。
「キャピタルタワーを占領する」ってカーヒルの作戦、占領はいいとして・その後どうするつもりだったんだ。
さてニッくんがベルに腕を極められた後、今回の一番「?」なシーンがやってきます。
アイーダと操舵士の女性が寄り添って、2回頭を付け合ったりするのです。
一緒に見ていたカミさんも、「何の意味? これ」と疑問を持っていましたが。
アイーダが去り際に、お尻触ろうとしているしね。
富野は朝日新聞でのGレコに関するインタビューで、次のように話しています。
「アニメ・コミック慣れしている人たちのセクシュアリティーに対する感度、感覚を、全否定する。言い換えれば全肯定する。ただ、バイセクシュアルとかそういうことを含めて、特別なことみたいには描かない。ごく普通に、さらっとやる。一切、作品の中で説明や解説めいたことはしない」
まあ「さらっとじゃねーじゃん!」というツッコミはあるでしょうが。
富野は『∀』でロランを女装させ、御曹司が同性愛者であることを暗示(でもないか)しました。
そしてGレコでもチアガールの中に「男の娘」を登場させています。
だから。
もう1人くらい、性的マイノリティ・ひょっとしたらこの劇世界ではマイノリティじゃないのかもしれないけれど、そんなキャラが登場しても不思議ではないでしょう。
で、上のキャプ画像です。
好きな女が、好きな男の話をしているから、操舵士の女の子はアイーダを見てしまった。ってのはどうです?
では、なぜアイーダが操舵士の横に行ったのか?
これは簡単。
にっくきベルがG-セルフに乗ることを艦長が了解して、自分も認めざるを得なかったので(その時のアイーダの表情!)、慰めてもらったんですよ、彼女に。
アイーダが彼女を親友と思っているのか、それとも「女の恋人」と思っているのかは、「作品の中で説明や解説めいたことはしない」。
ぼくの好みとしては、後者ですが。
一応アイーダは女王様になる女なのに、同性とはいえお尻触ろうとしているんだからね。
それもふざけている流れではなく。
親密なんですよ。親友とは違う意味の。
そう考えた方が自然。
「同性愛カップルの2人」と見れば、あの描写、ちっとも違和感ないでしょ?
少なくとも、操舵士の女性はアイーダに恋愛的好意を持っています。わざわざ描写しているあの視線の動きは、間違いないと思うなー。男性もイケるクチかは分からないけれど。
アイーダの方は、ちょっと考えづらいけれど…カーヒルカーヒル言ってるからなー。
まあ先方の好意を承知の上で、甘えているってセンはありそう。
これで疑問はスッキリしていただけたでしょうか? 当然、ぼくなりの解釈ですが。
ゆりゆらららも取り入れて、Gレコはますますにぎやかだ。
さて、話はまだまだ続く。Aパートも終っていない。
続きは次回に譲りましょう。
読みたくなくても、読む!
いや、読んで下さい。土下座。
さて、5話の後半です。
ベルのパイロットスーツ・首の部分に付いているウサギのマークに目がいきますね。
あれを付けたのがノレドだったら、ますます株が上がってしまう。アイーダ派のぼくはいったい…
偶然会い、見詰め合うアイーダとベル。アイーダの冷たい表情。
無言でも心情は雄弁です。
メガファウナの羽のような構造、面白いなー、ユニークだなーと思ったけれど、『リーンの翼』でもあったっけ? 忘れちゃった(愛情ねーな)。
天才ニッくんに艦の防衛・要するに邪魔だから出てくるなと言われるアイーダ様。
当然拗ねます。
メカニックには対艦ライフルの使用を止められるアイーダ様。
当然言うことを聞きません。
その視線の先には、コアファイターとG-セルフのセンサー合わせを終えたベルリを捉えます。
「人助けなどあてにしません!」
怒った表情が、やっと可愛らしいと言えば可愛らしいシーンか。 「人助けなどあてにしません」って言葉、ちょっとヘンな気もするけれど…戦場だからね!
上空から迫ってくる3機に、アイーダは「当たれ!」。
しかし、視聴者には当たる気がしないはずです。
敵は上空から来ているのに、射撃するアイーダの顔は正面を向いていて、白い効果線も縦ではなく横に流れているから。
これ、わざとだよなー。
マスク部隊、襲撃。1機と思っていたら、その後ろに複数。古(いにしえ)の戦法、ジェットストリームアタック。
エルフ・ブルックが変形して、背景色が変わります。
この演出、アブノーマルカラーって言うんだね。
前にも書いたけれど、個人的にはこの演出、1話につき1回でいいな…くどい。
で、エルフ・ブルックの変形シーンで、ぼくは『Z』のアッシマー変形を思い出した。
あの時クワトロさんは変形に驚いたけれど、天才ニッくんは「変形して武器なしでくるとはなぁ!」
ニッくん余裕だ! 赤い彗星よりスゴイぞ!
でもミサイルは打ち落とされ、ビームも中和されちゃったぞ?
なんかこの戦い。
ニッくんはまた苦戦に陥るし、マスクは決め台詞と共に放った拡散ビームが全くあらぬ方向に飛んでいるし、どうもどちらもイマイチ感が…
一方、直撃できずにヒスるアイーダ様。『アリア』のギンジだったら、ヒスれば強くなるのにね。
艦長の命令も拒否するアイーダ。使いづれークルーだな。
ベルが水の球を落とし、浸水しちゃうエルフ・ブルック。
エルフ・ブルックの強度・機密性に問題があると見るべきか、それほどの威力で水が放出されたと考えるべきか。
※追加。コメント欄でご指摘あった通りですね。
Gレコは、「兵器以外の武器を使う」ってのがテーマの1つなのかね?
前回でもビームライフルを投げ捨てるシーンがあったし。というか初回からそうだったな…
でも結局、別な力を使って・例えば謎の超パワーだったり水の珠だったりで敵を撃退するわけで、しかもやっぱり死人は出るわけだし、武器を使わずに戦おうとした瞬間から、矛盾が生まれるわけですよね。
もちろん制作者側は、それを承知で描いているはずです。
ベルはコアファイターをG-セルフにドッキングさせます。
パイルダーオン、シュートイン、なんでもいい、子ども向けロボットアニメはやっぱり操縦席がロボットにドッキングだ。挿入するんだ! 男の子は挿入大好き。
で、はさまっているハッパさん。
このアイディア、富野は興奮気味に話したそうですが、「機体の外にしがみついている」と誤解した人もネット上では散見するような…
キャノピーの外、広く言えばコックピットの中ですよね、ハッパさんがいる場所は。
構造については、安田さん曰く、以下の通りです。
監督の原案を見たとき、コックピットの中でコア・ファイターのキャノピーが開いているんですよ。これはクレイジーかと思っちゃったんですよ、残念ながら。でも後で考えると、G-セルフに収納されているときはキャノピーを開いてスペースを広くして、脱出するときに閉じればいいんだって意味がわかった。
「一撃離脱! 45秒間なら飛べる!」
このハッパさんの言葉を聞いた時、ファーストの。ガンダムがジャンプでマゼラトップを斬っていく戦法を思い出したのはぼくだけか?
しかし今回は、同じ描写ではなかった。
と、その前にベル、(モンテーロの頭を取られて、何が天才パイロットだ)と胸中で愚痴ります。
でもコレ、アブノーマルカラーで処理する必要あったのかな…背景作画の省略なのかな。
で、ジャンプした(アイーダ様いわく「飛んだ!」)G-セルフは、敵のビーム攻撃を防ぎ・さらにビームサーベルの刃を伸ばして、一撃でエルフ・ブルックを退けます。
ここのビームサーベルの描写は、まあ別の回でもすでにあったけれど、「富野の理想とすべきビームサーベルの描写がやっとできたなー」という感じですね。
斬る時だけ、ビームの刃が見える。
ちなみにルイン…じゃない、マスクは「あのビーム、伸びたか? あんな性能、調査部のクンパ・ルシータ大佐からも聞いていない」と呟きます。
ぼく、メカには全く興味がないのであやふやな知識だけれど、確かビームライフルよりサーベルの方が技術力必要なんだよね? ビームを一定の形状で固定しなければならないので。
「出力を調整してビームサーベルの刃部分を短くしたり長くしたりする」ってのは過去作品で描写があるわけで、つまりこの世界は宇宙世紀より遥かに未来なのに、MSに関する技術は後退しているわけですね。
さて。
伝説の英雄、アムロ・レイは何度もガンダムをジャンプさせることで「飛び」、複数の上空の敵を殲滅しました。
新生の天才、ベルリ・ゼナムは飛行ユニットがないのに大ジャンプで「飛び」、ワンチャンスで上空の新型機を退けました。
形は違えど、2人とも主人公だ。
そして陰の主役のナッパさん。コメディリリーフとして活躍しました。
まあハッパさん危ないなーって気もするけれど、戦場だからホラ、戦艦にいても死ぬ時は死ぬから…特に今回の状況だと危険度はあまり変わらない気もするし。
飛行ユニットがないのに飛んだベルに刺激されたのか、アイーダ様のアルケインもやっと滑空して、G-セルフをキャッチします。
今回の裏ストーリーは、明らかに「うまくいかないアイーダ」を描くことにあるので、まあここが唯一プラスのシーンかなあ。アイーダ様にとっては。
そして今回、一番シビれたのが、アイーダ様がベルにお礼を言うシーン。
安彦さんが昔、「富野さんのキャラは腹芸をする、セリフと本音が違う」みたいなことを言っていたけれど、このシーンもその代表例みたいなものです。
そしてこのシーンはやっぱりねー、嶋村さんですよ。シロウトのぼくが言うのもナンですが、素晴らしいのは。
礼をしているのに、それが「仕事」として言っていることが、ちゃんと伝わってくる!
誰だ、「声優にスキルっているの?」とか抜かした人間と、抜かした某金持ちにそんなバカな話を吹き込んだ元オタクは。
アイーダ様は仕事として言っているんだ・女王として自分の気持ちを押し殺しているんだ、ってのが言葉から伝わってくるのは、ホントに「いやープロの声優だな、耳福(眼福みたいな感じ)だな」と思いましたよ。
ここは、笑顔が張り付いたようなアイーダ様の表情作画も、素晴らしいのですが。
最後のアイーダ様が泣くシーン、「余計、なくてもアイーダの気持ちが伝わる」または「やっぱりアイーダはこんな気持ちだったんだ」と思った人は、大勢いらっしゃると思います。
その功績は「仮面(本当のマスクのことじゃないよ)をかぶっていることが視聴者に伝わる作画」と、「無理して言っていることが分かる嶋村さんの演技」、そしてこの直後のアイーダ様の表情にあると思います。
まだ続く、嶋村さんの絶妙演技と卓越の絵。
ぼくオッサンだから、神演技とか神作画なんて言葉は使わないよ。今ここで使ったら、スゴイ楽だけれど…
ベルリ「ぼくらだって死にたくありませんから。おあいこでしょ?」
アイーダ 「おあいこ? そうですね…」
そしてこの表情!
「そうですね」の部分が小声になり、ちょっと早口になるんですよね。
早口にしないと、自分の気持ちがこぼれそうになるから。
これはねー。ホントいい。
アニメ好きで良かったなー、と実感できるシーン。こういう演技を聞けたり、言葉より雄弁な表情を絵で見たりできるから、アニメって見る価値あるよな。
もちろんカーヒルを失ったアイーダにしてみれば、全然「おあいこ」じゃないんですよ。
1・2話のアイーダ様なら、ここで感情を爆発させていたかもね。
でも成長しているんです。
ヒロイン、三日会わざれば刮目して見よ!
このシーンが素晴らしいから、後の泣きながらの「自分の気持ちの説明」がいらないんじゃね? と思えちゃうんだよね。
まあここら辺は、親切なんですよ、Gレコは。ニヤニヤ。
ちなみに「泣きながら好きな男の名前を呟いて、それでも女王たらんとする」アイーダを見ていると、面白い髪型をした異世界の女王様を思い出しちゃうくらいには富野作品好き。
この後、ベル、ノレド、ラライヤの3人がハンバーガーと野菜スティックなどを食べていますが、これ多分アレです、富野作品史上最もおいしそうな食事です。
ハンバーガーを食べたベルは、指を舐めています。
指を舐めるほどおいしそうな食事が、富野作品に出てくるなんてね! ハンバーガーだけれど…
これまでは、時系列で追っていく方式で記事を書いていましたが、今回は気になったところをピックアップする方式にしたいと思います。
同じ書き方では飽きるのでね。
あ、視聴済みの方対象です。ネタバレありですよ。
EDで示唆されていた通り、カーヒルに続いてデレンセンも、ベルに腕を組まれてどこか(っていうかあの世)へ連れて行かれた訳ですが。
こう考えるとED、やっぱりいろいろイイよね。
6話で最大の話題? 賛否両論? になったのは、まあG-セルフVSデレンセンのエルフ・ブル戦の、例のシーンですよね。
おおまかな経緯と、「本来こうだったんじゃないか」ってのは、kaito2198さんの「『ガンダム Gのレコンギスタ』第6話「強敵、デレンセン!」の欠番カットについて」を読んでらもらえればOKとして。
やっぱり分かりづらかったかなー。
ぼくはエルフ・ブル、初見では「急に壊れている状態になっている」なんて思いもしないから、「変形したのか?」と思ったんだけれど。
ただそれより問題に感じたのは、リンク先のOPと繋げた映像でも解決していないけれど、描写なしに両機の位置が変わっていることだよね。
G-セルフ視点で書くと。
最初に背後からエルフ・ブルのビームが飛んできて、それを吸収。だからベルリもコックピットの中で後ろを見る。
こんな感じ。
エルフ・ブル→Gセルフ。
ところが次のシーンでは、
Gセルフ→エルフ・ブル。
これは、分からないよー。え? ってなっちゃった。
ちょっとやっぱり、残念だったかな。
あともう1つ分からないところ、これは完全にぼくの理解力の問題だけれど。
デレンセン出撃時に、彼の行動を描くことでナットの内部構造を見せてくれたけれど、ぼくにはちょっと複雑でした…
ファンブックかムックが出たら、構造載せてほしい。
それと脇役で気になったのは、操舵士のステアですね。
このキャラについては、「ひびのたわごと」さんが書いています。
力強い声が、操舵ってポジションと合っていて、はまっているよな。富野の言っていた面白い声の人、「傑出したバイプレイヤーが誕生する」って、ステアでビンゴかなー。
コレがまた、ピッタリのセリフをあてがっているしね。
「ファイヤ、ファイヤ、ファイヤ!」の声に合わせて、メガファウナの側面エンジンがボンッ、ボンッ、ボンッと同じリズムで火を噴く描写は、軽く震えてしまいました。
ラスト近くの「ヨーソロー!」は、聞いた時におまえが舵をとれィ! って歌が脳裏をよぎるの俺だけかな。ファンじゃないけれど。オマエが決めろオマエが決めろ。
あの13分以上 ある歌な。
あと、メガファウナのクルーからベルリ信頼されているなー。
「あてにしているぞ、少年」
「キャピタル・ガードのガキならできそうだけれど」
「貴様の腕は了解だ」
居場所を築きつつある…
で、ですよ。
ここまでの話題がアペリティフとアラカルト。これからがメイン。
今回一番思ったことは、「母親のウィルミットとベルリ、断絶するかもな」って予兆を読み取ったこと。
重い展開イヤだから、杞憂ならいいけれど。
以前、唐沢俊一さんが「どんなロボットアニメでも、主人公達は戦争の中心にいて描かれている。それはガンダムでも例外ではない」みたいなことを書かれていたはずで。
つまりは「戦争の行方に影響を及ぼせる位置に、主人公達はいる」「主人公達の行動が、物語中の戦いの行方を左右する」って指摘だったと思うんだけれど。
まあ今はイボルブとかあるから、この指摘が全てに当てはまるとは思わないけれど、富野アニメには有効な指摘だよね(唐沢さんだからといって、毛嫌いしないように)。
で、今回のGレコは、その傾向がさらに強い。
ベルリが海賊側に行った・キャピタル側に言わせれば「連れさられた」ことが、戦局に大きく影響している。
キャピタル側はまさにそれを口実に、武力を拡大しているわけだからね。
アムロやカミーユ、ジュドーもウッソも、戦争の「重要な1つのピース」で、それぞれの戦争に大きな影響を与えた。でもやっぱり、必要だけれど、大きなジグソーパズルのピースの1つだ。
でも今回の主人公・ベルは、ピースというより事態の中心にいる。彼を中心に、事態が動いているように見える。
で、ベルリの行動からまともに影響を受けている1人が、母親のウィルミット・ゼナムです。
今回の6話は、彼女の職場(と言っていいのか)での立場が、徐々に失われていることを繰り返し描いている。
序盤。
多数のカットシーを見て、「なんでこんなことになるんです」。
自分の管轄であるはずのキャピタル・タワーに、軍隊が我が物顔で駐留している。
それは軍隊への嫌悪というより、自分の権力が及ばない物があることへの忌避でしょう。
だから、直後のジュガン(アーミィの司令官)へのセリフは、
例えば「キャピタル・アーミィは何をやろうとしているのです」
ではなく、
「キャピタル・タワーで何をやろうとしているのです」になるんですよね。
彼女は運行長官、タワーに関してはおそらく実務のトップでしょうから、自分の頭上で話が進んでいくのが我慢ならないのです。
エルフ・ブルの発進を聞いて、ウィルミットは「はあ? 冗談でしょ!」と何処か・後から判明するけれどコントロール・ルームに走っていきます。
で、デレンセンやベッカーと会話をします。
「そちらのアンダーナットは、軍事基地になってしまっているじゃないですか」
繰り返し書いておきます。
これは、ウイルミットはハト派だとか、そんな問題ではありません。彼女にとってアーミィは、自分の場所であるタワーにいるのに、コントロールできない目障りな異物なのです。
デレンセン「長官殿! ご子息は必ず取り返して見せますから!」
そこに、ジュガンがモニターに現れます。「キャピタル・アーミィのやることに!」。音声が途切れます。
アーミィってキャピタル・ガードがスライドして結成されているから、管轄どうなっているんだろうね?
運行長官には口を出させない。でもあくまで「キャピタル・タワーの防衛」が名目なら、「キャミタル・テリトリィの軍隊」でもないのかな。首相のビルギーズはまだ姿見せないしね。
もしそうなら、文民統制できてないじゃん。だからこそ、クンパ・ルシータは調査部が重石になろう、としている気配もあるけれど。
画面に戻ります。
音声オフになりますが、ウィルミットとジュガンは口論を続けています。
で、結局ウィルミットは負けます。「デレンセン大尉、よろしくお願い致します」。
敗北です。完全な敗北。
さて、そこで、ですよ。
「地球の財産」であるキャピタル・タワーの運行長官にまで上り詰めた女性が、自分の息子を口実に職権を侵害され、地位が有名無実化し始めている。
状況は勝手に進んでいる。
この時、ウィルミットが「母親」よりキャリアウーマンとしての自分を優先させたら、息子をどう思うか?
飛び級するほどの自慢の息子だったのに、今は息子を盾に・クンパにもジュガンにも押し切られている。
ここでぼくが思い出すのは、「ウィルの性格を表すために必須」だという、運行長官の部屋に飾られていた「カバの頭の剥製」です。
カバは気性が非常に荒く、縄張り意識が強い動物だそうです。
縄張り意識が強い。
ウィルミットは、ベルリの手の傷を心配したことがありましたね。「とがめるといけない」なんて方言まで使わせた、印象深いシーンです。
『Vガンダム』を見ている方は、思い出してください。
カテジナさんも最初は優しいお姉さんで、ウッソに「怖い人にだけはならいないでね」とか言っていたんですよ。
もちろんウィルミットが、カテ公ほどおかしくなちゃうとは思わないけれど、母子の関係は断絶するかもね。
ベルはベルで「母さんは、キャピタル・アーミィのことを知らなすぎです!」なんて言っている。
母親はアーミィの現状なんか承知で、でもオマエが海賊側にいるから・強硬派に抗せないんだよ。
「とがめるといけない」なんて母親の優しさを見せたの、前フリの気がするんだよなあ。悲劇への。
あと、デザート気分で・いくつかを短く。
艦長のドニエル、ひょっとして艦長としての技量は低いんじゃね?
彼のメインの仕事は、アイーダのお目付け役ではなかろうか。
デレンセンの最後の言葉、「ベルリ生徒か…」は良かった。
彼はアーミィに所属していても、心根はガードの教官だった、ってことだよね。
ニッくんの「私には、無駄死にというチョイスはないんだ!」
名セリフだな。
後々の伏線にならなきゃいいけれど…
そして大気圏突入するG-セルフが火の鳥に包まれて!
おそらく富野にとって最後のTVシリーズ、手塚へのオマージュを表現したと邪推していいでしょうか! 富野さん。
さて最後。
ついに、アイーダ様がベルリを気遣った。
ベルリが知人を殺したことを、悟っていますね、アイーダ様は。まあもとはキャピタルの生徒なんだから。
横目でベルの表情を見るアイーダ様。
その後、部屋まで様子を見に来ます。
彼女は勿論、大切な人間を失った悲しみを知っています。
しかもベルは、自分で殺したのです。
アイーダにはその悲しみが理解できる。だから、ベルを気遣うこともできる。
皮肉なことに。人の死が、2人の距離を少しだけ縮めたのでした。
さて、それでは講座を始めましょう。わずか10分もかからずに読み終えて、よりGレコを楽しめる話です。
富野アニメには、これまでにもマスクキャラが登場してきました。
その系譜を羅列して見ましょう。
プリンス・シャーキン(悪魔の王子)
シャア・アズナブル(ジオン・ダイクンの忘れ形見)
バーン・バニングス(騎士団長。「私は騎士の出のはずだー!」)
鉄仮面(クロスボーン・バンガード総帥の娘婿)
バロン・マクシミリアン(元ノヴィス・ノア艦長)
これ、皆さん社会的…まあシャーキンの社会的地位ってなんだ、って話もありますが、ある程度の地位を持っている人物が、何かの理由で仮面を付けている訳です。
加藤典洋さんは『言語表現法講義』の中で、 村上龍さんの『トパーズ』を評して次のように書いています。219ページからですね。
この小説は一九八八年に刊行されたのですが、それまで、日本の小説というと、主人公がある穴ぼこのなかにいる、いわば「うらみつらみ」のネクラの小説か、何もそういうものはなくて平地に逆にこんもりと山を築く「こういうことをすると気分がいい」ネアカの小説か、どちらかでした。言ってみれば、中国人に間違われて怒るのはよくない、という小説か、アメリカ人に間違われてうれしかった、という小説かの、どちらかだったのです。そして、そこで小説は、この穴を埋め、また山を築く「砂」にあたっていて、穴を埋める砂は「中国人に間違われて怒るのはよくない」というルサンチマン型の青い砂、山を築く砂は「アメリカ人に間違われてうれしい」というプラス添加型のピンクの砂でした。
ところが、この『トパーズ』では、この穴ぼこのなかに、ピンクの砂がつまっているのです。
えー、いかがですか。
ぼくは、この見方をもっと簡素化させて、アニメや漫画にも適用させています。
つまり「砂の色」はひとまず横に置いて、穴ぼこにいるタイプは「喪失と回復」、山を築くタイプは「上昇」として作品全体やキャラクターを見ているんですね。
例えば何年もの間、この「喪失と回復」を見事に繰り返していたのは『NARUTO』です。『ドラゴンボール』は「上昇」タイプですね。
富野作品も、生み出されるキャラクターも、まあ「喪失」のタイプです。
そして初期作品のシャーキンはともかく、これまでの仮面キャラは、素顔を隠すことで高い所から下の場所に移動・喪失したか、あるいは高い場所のままに居続けた・喪失状態を継続していた訳です。
こうですね。
キャスバル
↓
↓
シャア→→
カロッゾ→→鉄仮面
アノーア→→バロン
バーン
↓
↓
↓
黒騎士(いずれ再び↑を目指す)
彼ら、彼女らは、元々それなりの地位にいたのが、マスクを付けて横滑りになるか、下がっていったわけですね。
少し口幅ったいですが、「仮面」は「失ったもの」の象徴です。
逆に言うと、シャアやバーンが仮面を取る時は、つまり望みが達成した時、です。
ザビ家を打倒したら、ショウを倒したら、彼らはマスクが必要なくなる訳ですね。
鉄仮面が「失ったもの」は「弱い心」であり、バロンは息子であるため、彼・彼女達が仮面を外すのは、状況が許しませんが…
ところがGレコのマスク大尉はこうです。
↑
↑
↑
マスク(上に行くぞ)
ルインはもともと上昇志向が強かったキャラクターなのですが、彼は「何かを失って」マスクを付けた訳ではありません。
あえて言えばクンタラの生まれであること、つまりはオリジン、あ、安彦ガンダムのことではないですよ。原罪です。
生まれた時から失っている、ということは言えなくもありません。
でもルインは、下からのスタートで、仮面を付けることで上を目指すんですよ。これは富野作品に今までいなかったキャラクターです。
そもそも、コレは誤解を招くかもしれませんが、富野監督の視点が「下層」に向くというのは、非常に珍しいことです。
富野作品って、基本的には「選ばれた人間達」の物語なんですよ。
これは富野監督が大河劇を描いている以上、言い換えればある世界の歴史を描いている以上、どうしようもない特性でもあるのですが。
勿論、ゲストやモブレベルでは、色々な人物が出てきます。ミハルとかね。ククルス・ドアンとか。
でもやっぱり、天才やニュータイプ、聖戦士、革命を起こす戦士、国を代表する人物達の物語なんです。
ガンダムで言えばカイやランバ・ラル、ハヤトも、普通の人間じゃないんですよ。彼らは歴史の中心にいる人達なんですよ。
富野監督の視点が上に向いている、ってのはですね。
これはまあ、例えばインテリゲンチャの大島渚が最下層の人物達を撮り続けたのと、逆のことだと思います。他にも例えばイマヘイの『赤い殺意』は、小林信彦さんが「監督が東北地方の底辺の女に固執するのは、<エリートの底辺趣味>ではないかという気きもする」と指摘していますが。
富野監督はこの逆です。監督はよく、「勉強できなかった」と言っていますが、その思いが視線を上に向かせているのだろうと推察しています。
だから今回、「クンタラ」という最下層の人物を設定して、さらにそのルインに仮面を付けさせて、上を目指そうとさせるのは、新しい視点でビックリしました。
このビックリは、「ここまで、ルインに自分を素直に投影させるのか」のビックリです。
ファンの方には周知の事実でしょう。富野監督は「アニメ業界は社会的地位が低かった」と再三言っています。
実例として資料を提示しましょう。
2009年のゲーム開発者のためのイベント「CEDEC」。
「私はずっと、映画業界の中では“最下層”と呼ばれたアニメーション映画の世界で仕事をしながら、いつか現在の自分のような立場に立てるようにずっと努力してきた」
同じ年のSIGGRAPH Asia 2009。
「それでも、ここしかないと思うなら、それを信じてコツコツやるしかない。テレビアニメを始めたとき、それは最下層の職業だった。30年,40年生きられるだなんて、思っていなかった」
週刊大衆の2012年1月9・16日号インタビュー。
「僕自身にとっては、テレビアニメの仕事は、いってしまえば最下層の仕事だったわけです。それでも、コツコツまめにやっていれば、なんとかなった」
ちょっと時代が前後しますが、電撃PLAYSTATIONの2007年9月14日号付録。
「昔のアニメにおいてロボットものは最下層のジャンルで、今現在も「サザエさん」や「ドラえもん」に勝てるロボットアニメは存在しません。でも、廃れることもなければ、なくなることもない」
随分と「最下層」と言っていますね。枚挙に暇はありません。他にも探せば、いくらでもあると思います。
インフェリオリティーコンプレックス、劣等感ですよねコレは。それをバネにして、富野監督は日本アニメを代表する監督にまでなったわけですね。
あ、話が少し逸れますが、インフェリオリティーコンプレックスをコンプレックスと言うのは、非常に良くない略し方ですね。シュペリオリティーコンプレックスはどう略すんだ?
こんな略し方が蔓延するから、攻殻機動隊SAC放映時に「スタンドアローンの劣等感…?」などとあらぬ方向に向かう人が出てきてしまうんですね。
話を戻しましょう。
クンタラという最下層の人達を設定した時、そしてルインというキャラを生み出した時に、富野監督が彼を意図的に自分の分身としたかは分かりません。
しかし意識的・無意識に関わらず、ルインは富野監督本人が強く投影されたキャラクターになりました。
下の立場から、自分のいる場所で頑張って上に行こうとする姿勢は、富野監督そのままです。
第7話「マスク部隊の強襲」で、「キャピタルタワーを支配するまでになる」に違和感を持った人は多いと思います。
かく言う私も、「え、クンタラへの差別をなくすだけじゃなく、そこまでいっちゃうの?」と思いました。
しかしマスク=富野監督と考えている今なら、あのセリフは不思議でもなんでもありません。「アニメ界くらいではトップになる」なんて、いかにも言いそうではありませんか?
インタビューなどで富野監督のパーソナリティーを把握している人は、むしろしっくりくるのではないでしょうか。
こう考えると、マスク大尉に愛着が沸いてきませんか?
さてここからは余談です。
では、そのマスクを毎回打ち負かす天才くんは、誰とダブるだろうか?
コケティッシュな雰囲気のあるバララ・ペオールは、チョキとして見ることはできないか?
優れた作品は、多様な視点から楽しめますね。
今日の講義はここまでです。ご清聴ありがとうございました。
さて、今回の記事は。
今更感ありますが、荒木さんコンテ・演出で話題になった10話についてです。
の前に。
ご存知の方もいると思いますが、亜手さん(@ate507)による労苦の結晶を、微力ながら紹介しておきます。
亜手さんは『Gレコ』1~3話の、放送版とソフト版の違いをまとめました。
ソフト版第1話変更箇所まとめ
ソフト版第2話変更箇所まとめ
ソフト版第3話変更箇所まとめ
変更点、多いな…
変更意図が分かるところから、ぼくなどには理由不明の箇所まで、様々ですね。
1話で、ノレドがラライヤを2度見する変更は嬉しい。なにせ、母親役を務めることになるんだからな、この後。
シャンクのライトの光は随分気にしたみたいですね。2話ではそこ関連が全部修正入っている。
あと、3話放映時に1部の人が指摘していた、先行上映版にはあって・放映時には消えていたクラウンが復活したところね。
ぼくはもちろん、放映時に気付かなかったけれど。
あそこ、印象深かった人もいるようで、ぼくのフォロー数を絞っているTL上でも、確か「クラウンなくなった」って呟いていた方が2~3人いたはず。
このまとめ、興味深いのでファンの方は必見です。
さて、10話の話題にいきましょう。
15話まで見終えた今から振り返ると、冒頭から「おっ」と思う箇所があります。
以下の会話。
クンパ「(前略)あなたは法皇を人質に、海賊船でザンクト・ポルトに上がるつもりになったのでしょう?」
グシオン「想像のしすぎです」
15話まで見終えた現在から言うと、想像のしすぎじゃなかった。「海賊船」ではなかったけれど。
「宇宙から落ちてきた」というだけで、キャピタルから身柄を要求されるラライヤ。理不尽ラライヤ。
この前からケルベスさんが仲間になって、いよいよ各陣営の複雑さが増してきます。
まあ『Z』で、「同じ地球連邦なのにエゥーゴとティターンズに分かれていて、さらにシロッコやハマーンがいて分かりづらい」との批判があったくらいですからね。
その点、『Gレコ』はさらに今後入り乱れるので、ここは批判が集まるところかもね。
10話以降の話になるけれど、正直ぼくも・もうちょっとスッキリさせてくれ、とは思わないでもありません。各陣営が一枚岩じゃないのは当たり前、ってのも分かるけれども。
さて次のシーン。
MSの手の平の上で、演説をする首相のビルギーズ・シバ。
しかし演説の途中でシバが乗っているMSの手が下がり、変わってタカ派のベッカーが「上がってくる」訳ですから、ここの意味は明白です。
軍は完全に政治のコントロールから離れている、と。
ここら辺は直接的、分かりやすすぎるくらいです。
「男の娘」に見初められるMS・ウーシァ(あのシーン、それともベッカーに狙いをつけたのか?)
ケルベスに「お礼のステップ」をする姫。
ベルリ「お礼ができる人だったんだ…!」
会話の中では、メガファウナは宇宙に上がれる、宇宙からの脅威、など今後の展開の伏線も出てきます。
もし『Gレコ』の会話を批判するなら、「繋がってない」「意味分からない」程度ではなく、せめて「説明的過ぎる」「伏線が露骨」くらいにはしてほしいものだね。ニヤニヤ。
さてここで、高トルクパックが登場します。
公式HPには、「高機動・近接戦闘用のバックパック」とあります。キャピタル・アーミィが建造したものです。
車のトルクと同じ意味だと考えると、加速力が強まるバックパックってことですね。
ダッシュ力があるということなので。
まあだから、本来なら平原とか砂漠とか、遮蔽物のない地形でこそ本領を発揮するバックパックだと思います。
劇中に入り込んで言うなら、「密林地帯での戦闘が想定されるのに、高トルクパック付けるハッパさん大丈夫?」となるし、
「引いて」言うなら、「この場面設定で、高トルクパックの性能・戦闘をああ見せてくれたのはスゴイな」となるわけです。
『ビートマガジン』1月号の富野×荒木さん対談で、荒木さんが
(富野からの演出オーダーは)「沢山ありました。具体的なところで言えば、劇空間を芝居の都合で平らにしたり、広くしたりしないということです。例えば、木が立っていてそれが芝居を見せる上で邪魔だったとしても、それを利用した形での芝居作りを心掛けるというか、演出家の都合で舞台を平たんにしないように言われたことが印象に残っています」
と語っていましたが、この「木が立っていて」が実例なら、この戦闘シーンのことじゃないかなあ。
「見せ方」としても、高トルクパックと密林地帯って相性悪かったと思います。それをあそこまで楽しく…
この後、出撃前のウーシァが、ジュガンの喝で「コケる」シーンがあります。背後からライトを当てている構図も面白かったのですが…
実はこの10話、ぼくが「今までの富野作品の中でベスト回ではなかろうか」と思える点があります。
それが今回の記事のタイトルにした「特色」の1つ目。
それは、えーと。
「笑える」まではいかないけれど、最後のワニに襲われそうになるベッカーのシーンといい、今までで一番コメディーシーンで「にやけられる」な、という点です。
富野作品では例えばダイターンやザブングルがコメディー寄りの作品だとは思うんだけれど、じゃあニヤニヤできましたか、と聞かれると・少なくともぼくにはできなかった。
富野はかつてコメディーシーンについて、次のように語っています。
「やっぱり喜劇の真骨頂と言ったら、チャップリンのようなね、シリアスにやってるんだけどユーモラスで笑えるものですよ。ユーモアとかギャグは、シリアスがベースにないとできない、絶対に笑えないはずなんです」(『ザンボット3・ダイターン3大全』106ページより)
この言葉は『Gレコ』全体に通用するけれど、この10話は特に際立っているな、と思います。
その要因が富野脚本なのか・荒木さんのコンテ及び演出なのか、ぼくには分かりません。が、もちろんどちらの要素もあってでしょうが、荒木さんの要因が大きければ良いな、とは思っています。
新しいスタッフの力でさらに富野作品の魅力が増すって素晴らしいじゃないですか。
で、もう1つ。
もはや光源が不明な逆行の中で手を結び・腕を上げるキャピタル・ガードのMSや、
落とされるアルケインを見て「ハッパさーん!」と叫びながら振り返るベルリ(効果線あり!)や、
ネットでも話題になっていたドラゴンボールのような戦闘シーンなど。
ぼくはどうも、上記のシーンにはアニメというより、漫画の文脈を感じるんですよね。
ありもしない「原作漫画」のコマを忠実にアニメ化した感じがするんですよ、見ていて。
ドドーンとかズバッとか(ダサイな)、オノマトペが脳裏に浮かんでくるほどなんですよ。
それが、ぼくにとっての大きな「10話の特色」の2つ目です。
あの「ドラゴンボール」な戦闘シーンとか、ホントに漫画の息吹を感じるんだよな。あれだけ動いているのに。もちろん、悪く言っている訳じゃないよ。
むしろ、あの外連味は好き。多少のリアリティーを犠牲にしていいと思っているくらいだから、ぼくは。
例えばさー。
その前に、アルケインは対艦ライフルが木に引っ掛かって、捕まっちゃうでしょ。
その時には「密林の狭さ」ってリアリティを出しているのに、その後のGセルフは木々の存在なんかないように、高速で動くんだよね。高トルクパックはちゃんと木の上を飛んでいるけれど。
そのリアリティの飛ばし方って、連続して動くアニメーションっていうより・コマで区切ることができる漫画の文法のように思えるんだよなー。
これ、共感されないか?
まあいいや。コメディーに関しては、共感していただける富野ファンもいらっしゃるのでは。
さて、本編であと気になった箇所は。
ベッカー達出撃時の、チアガール「海賊船をやっつけろー!」は、相変わらず怖いところです。
やっつける、って敵を殺すってことなんだけれど、それを明るく言わせちゃうところが、『Gレコ』の怖いところなんだよね。
この「怖さ」は今後、主人公のベルリにも伝染します。
あと、アイーダさまファンは今回も楽しむことが出来ます。
さっきも少し書いた通り。
アルケインが対艦ライフルを持っている=支援用なのは、「アイーダを最前線に立たせたくない」という父親の意図がこもっているはずなのですが。
姫はでかい対艦ライフルを持って、密林地帯に入っちゃうから!
敵に襲われエアバックが出て、またブサイクな顔になるわけですが、それでも可愛いよアイーダさま。
あと、『Gレコ』で頻出する演出、背景色が変わるアブノーマル・カラーね。
今回はいつもと色合いが違った・明るかったですね。これも目新しかったです。
ベルの「恋を知ったんだ、誰が死ぬものか!」は、印象深いセリフですね。さらっと(ハッパさんに)告白。
でもその恋、インセスト・タブーかもしれないけれどね!
あと、まあロボットアニメのお約束で言えば、「むしろ死んじゃうかも」って気がしますから、ちょっとメタ的な面白さもある。モエラー!
最後、感動的な音楽のもと、アルケインを背負って「母だって許してくれる帰る場所=メガファウナ」に帰艦するGセルフ。
この描写は、2人の関係をそのまま表しています。言うまでもなく。
ベルリはアイーダを背負うように、サポートして今後の冒険を続けるわけです。
今回の10話は、前評判に違わぬ内容で、とても楽しめました。
どうも。昨日の日中に引き続き更新。連日更新は珍しい、ぼくにとっては。
あのー。
第16話、「ベルリの戦争」。ベルとアイーダさまの出生が判明する、大事な回で。
ベルリがこの表情をしますよね。
「なんかの冗談…じゃないみたい」
目を閉じている表情。ぼく、この絵を見て、「ゴルゴ13の女性キャラって、笑った時にこの目になることがあるよなー」と思ったのですが。
いや、それはどうでもいいんだけれど。
この回ではもう1度、目を閉じます。コレですね。
「ベルリは、人殺しの汚名をかぶることになったんですよ」
上のシーンは、好きな女性が姉だったと判明するシーンであり、下はその女性に「恋人を殺された」と指をさしてまで言われる場面ですね。
弟の感情は汲まないね、姫…
「キャラが目を閉じている絵」には、場面によって色んな意味があると思うんですけれど。
ベルの場合は。
上記のシーンでは、好きな女性が姉であれば当然動揺するし、「恋人を殺された」って言われれば「オマエを助けるためだろ」と反論したいわけですが、ベルは自分の感情を押し殺しているわけですよね。
で、今日、第20話「フレームのある宇宙」を見たのですが。
またこの「目」が出てきた。
「姉さんが心配してくれるなんて」
アイーダさまに完全に弟扱いされ、まあアイーダはベルの気持ちを察した上でワザとやってんじゃねーの? って気がしないでもないのですが、ともかく「弟」として接されて、この目をしたわけです。
ノレドやマニィは「ベルは受け入れている」と思っているようですが、ベルはコックピットの中では1人「姉だなんて!」と運命に文句を言っているわけで、全然消化し切れてないと思うんですよね。
つまり、アイーダを「姉さん」と呼ぶのはかなり意識的に・無理して呼んでいるわけで、自分の心には嘘をついて…は言い過ぎでも、努力して呼んでいるわけです。
だから、この「目」になる、目を閉じているのではと。
ベルが目を閉じている時は、嘘をついたり、自分の感情を殺している時の・作画上のサインだと考えているのですが、どうでしょうね?
特に、まあカーヒルを殺したことを責められている表情は通常の作画だとしても、「笑顔で目を閉じている」時は、この説当たっているんじゃないかなと思うのですが。
ちなみにどちらの回も、キャラ作監は柴田淳さん(ついついジーパン・松田優作を連想してしまう世代)。
全く詳しくないけれど、柴田さんの絵の特長なんだろうか。またはGレコに参加するのに際して、意図的にやっているのか。
それともぼくのうがち過ぎかな…
さっそく講座を始めましょう。わずか10分もかからずに読み終えて、よりGレコを楽しめる話です。
Gレコには、何組かの男女ペアが登場しますね。
その中で、クリムとミック。マスクとバララ。さらに最近出てきたマッシュナーとロックパイ。
このペアは、「女が男をおだてて動かす」という点では、共通しています。
参考文献としては、こちらの「女いろいろ万華鏡」をお読み下さい。
さて、ここでですね。
彼・彼女らの関係性を、「恋愛」という視点で見ると、ちょっとややこしくなる場合があります。
えー、バララはマスクのことが好きなのか? とか、マッシュナーは単にロックパイをたらしこんでいるだけではないか? とか、男はバカだから鼻の下を伸ばしているけれど、女性の心情が良く分からない、という点もあるわけです。
もちろん、キャラのここら辺の心情を忖度するのも、ファンの楽しみの1つです。
しかしですね、中には「コイツラはカップルなのか?」「関係性がよく分からねーよ」と不満に思う方もいらっしゃるかもしれません。
そんな方々に、女性キャラの行動の意味がスッキリと把握できる、「原則」をお伝えいたします。
これは映像全般の原則ではありません、「富野監督が考える男女関係の原則」です。
キャラの恋愛感情は取りあえず横に置いておき、この原則をメガネにして男女ペアを見ると、理解しやすいかと思います。
では、答えを伝えましょう。ちょっと長いですが、答え部分を富野監督の著書『「ガンダム」の家族論』87-88ページから引用します。
(熱帯雨林地方の民俗・集落のドキュメンタリー番組を見て)
番組を見てまず印象に残ったのは、とにかく村の男たちが働かないということ。ほんとうにどうしようもないときだけ最低限働いて、あとはごろごろと時間を過ごしている。
原始時代も、きっとこのようなかたちで人間は暮らしていたのだろう。
原始時代、人間のグループが女中心となっていたのは容易に想像がつく。人間のような子育てに手間のかかる動物の場合、母子の関係が深いから当然といえる。そこは母性だけでできた世界だ。
その場合、男はどこにいたのだろうか。
きっと女が種付け用に自分たちの近くで放し飼いしている存在だったのだろう。村を維持するために子供が必要になった時にだけ、「ちょっと手伝って」と呼ばれて、子供を産むために協力させられていたのではないだろうか。ドキュメンタリーで男たちがいざというときまでなかなか働かなかったように。それが男の最も原始的な姿であったろう。
そして、そんなある時、女たちは男をもっと有効に使うことを考えた。
なにしろ男たちはたまに働くか、種付けの時しか役になっていないのだ。そこで女たちが子育てで忙しい代わりに、となりの集落との交渉事などを任せるようにしたのだ。
男はバカな生き物だ。女たちのおだてに乗せられて、しっかりととなりの集落に行って、とにもかくにも交渉事をまとめたのだろう。もしかすると中には、交渉ついでにとなりの集落の女に手を出す男もいたかもしれない。
やがて女どもは「そうか、政治・外交を男どもにやらせれば、私たちは一番大事な子育てに集中できる」と考えるようになった。そこでさらに、女たちは男たちが守るものとして「血統」や「家系」というような概念を創作してあてがい、白黒をつけてルールを守らせる役目を男たちに任せていった。そこで生まれたのが父性なのだ。
以上です。これが、富野監督が考える母性・父性であり、その上でかつて生まれた男女関係の考察です。
この考えを先の男女ペアに当てはめると、スッキリと捉えられませんか。
女性は恋愛感情より先に、
いやその人物が「自分の男になるかもしれない」候補であるほど働かせたいし、「仲間・部下として役にたってほしい」と思っても、やっぱり働かせるんですよ。
富野監督の中では、それが「当たり前」の女性の役割なんです。
唯一違うのは、Gレコの女性キャラは子育てせずに、自分達も戦っているところですが。
でも、自分がおだてて動かないような男では、将来その男と子どもを設けることもできない、と考えるのが今回の富野監督が描く女性キャラなんです。また、部下や同僚としても、男はそそのかして働かせる存在なんです。
バララやミックがパートナーを愛してようがいまいが、結論は同じです。
「そそのかして働かせる」んです。
もう1つ、この「見方」を適用すると、違う意味が生じる場面を紹介しましょう。
第14話の「宇宙、モビルスーツ戦」で、アイーダがベルリをおだてて、戦わせようとするシーンがあるでしょう?
ベルリはそのアイーダの言葉に、「おだてには乗りません…!」と拒否するそぶりを見せます。
しかし同席していたノレドが、「男をやれって言われてんだろ、 嬉しがってやりな!」とダメ押しします。
ノレドの恋心を考慮すると、ちょっと複雑になりかねないシーンです。
が、上記の「原則」で見ると、ノレドの行動は非常に分かりやすくなりませんか?
ノレドがそれこそベルリを自分の男だと考えているなら、女に尻を叩かれているのに拒否するような男は、父性が育っていない・「使えない男」なんですよ。
だからストレートに、「男をやれって言われてんだろ、 嬉しがってやりな!」と言うわけです。
このセリフは、Gレコ世界における男女関係を明確に示しています。
女におだてられているのに、動かないのは「男じゃない」んですよ。男はまんまと調子に乗って、働いてこそ「ナンボ」なのです。
ここで気になることが1つ。
じゃあ、「男をやる気にさせる立場を得られない女性」はどうするか、どうなるか?
それはマニィの行動がいずれ、教えてくれることでしょう。
いかがでしたか。理解の一助になれば幸いです。
今日の講義はここまでです。ご清聴ありがとうございました。
どうも。お久しぶりです。
Gレコ感想がしばらく空いてしまったのは、仕事が忙しかったりインフルエンザにかかって寝込んでしまったりと色々あるのですが、正直、「Gレコどうだろう?」って思っていたのも要因の1つです。
もちろんゴミ掃除とか面白いエピソードはあったけれども、展開が速くて・ややダイジェスト版を見ているような錯覚に陥る。
あと、どうしても思ってしまうのは、もう少しキャラクターの感情のうねりみたいなものが見たい。特にベルの。
そんなちょっとスッキリしない気持ちもあって。
無理してブログ記事を書くことはしないようにしているので、放置していました。
もちろんアレですよ、お金を頂ければどうしようもないアニメも褒めちぎりますし、その逆もしますが。仕事くれ。
ブログは、趣味なのでね。
でも。
再び「おっ、Gレコいいぞ」と思った…と言うか、驚く描写が第20話「フレームのある宇宙」で出てきました。
「人間爆弾」という単語が出てきた時です。
えっ、今更?! 富野、人間爆弾なんて『キングゲイナー』でその案を出してきたスタッフに「もうこういうのはいい!」って怒ったんだよね?
いや、本当は「主人公たちが旅をしてると、道いっぱいに首だけ出した人間が埋められていて、その人達が『哀れな俺たちを踏まないでくれ』と一斉に大合唱する」案だったんですけれど。
なんか人間爆弾って単語を聞いた時に、「ぼくと言えば人間爆弾でしょ」的な・ちょっとしたファン向けのサービス精神を勝手に感じちゃいました。
今更富野が本気で人間爆弾をやる気なんてないわけで、だから当然「花が咲く」みたいなオチが用意されていたわけだし。
そこで敢えて「人間爆弾」なんて言葉を使ったのは。
なんかGレコって、集大成と言うか、まあファンサービス旺盛だよな、と感じた次第で。
他にも、15話で「ニュータイプ」って言葉が出てきたのは、視聴者サービスだったとレコンラジオ7話で話がありました。
また、序盤で良く出てきた動物の描写もね。ぼくは『ガンダム』や『イデオン』を思い出していたけれど、同じくレコンラジオの8話で、富野はファーストガンダムを意識して入れているだろうと小杉Pが言っていたし。もっともこの描写には、地球が復活してきた明示の意味もあるけれども。
さらにさあ、ひびのたわごとさんが指摘していたように、以前自分が「漫画でこんな難しい単語出すなよ!」と言っていた「ムタチオン」なんて使ったり。
この言葉を脚本に書いた時、絶対に手塚=『来るべき世界』が頭にあったと思うんだよね。
そんなところまで含めて、ファンサービス旺盛だし・全部ブチ込んでいるなって気がしたんだよね。
あともう1つビックリしたのが、200歳って年齢のキャラクターが出てきたことだよね。
冷凍睡眠していた月の女王を除けば、少なくとも映像の富野ガンダムでは、人の寿命内でみんな死んでいた・生きていたわけじゃない? それが共通ルール、設定だったよね。
それが突然、200歳なんて常識を超えたキャラが登場するなんて…
そして、立派に見えるけれど、中身の体はああだったわけじゃない?
最初は20センチくらいの人で、着ぐるみを操っている設定だったらしいけれど。日本を舞台にしたハリウッド映画で、なんか似たようなの見たぞ…
でさあ。あのー。
あの体については、一瞬見せるだけで説明なしに終るでしょ。
でも、200歳なんてこれまでの世界観に反するような設定を作ってまでも、あのキャラをああいう体で見せたかったわけですよ。
ぼくのネットまわりの富野好きの人達は明言しないようにしているから、なぜなら面倒くせーバカが沸いてくるから、なのでぼくも書かないけれども。
フォトン・バッテリーが何を示していて、ヘルメス財団が何を象徴しているかと考えれば、まあラ・グーは人ではなく現実にある某会社の象徴と考えればね、ぼくはスッキリ納得できました。あの設定の意味が。ヘルメス財団とイコールでしょ、たぶん。
こうまでして富野、描きたかったんだな、と。
最後にもう1つ、久々に「コレだよコレ!」と思ったのは。
マニィとノレドの会話。
記憶だけで書くから細かい違いあったらスミマセンだけれど、
ノレド「(操縦を)あのマスクから教わったの?」
マニィ「まさか」
ああ、こういう芝居ホントいいよなあ。何が「まさか」だよ。
教えてもらっていたんだよ。
マニィは親友にも嘘をつく程だから、この後にマスクの元へ直行するのも理解できるし、バララがアッサリとマスクを諦めるのも腑に落ちる。
バララも、マニィがマスクからMSの操縦を教わっていた、特別な女だと前々から分かっていたから、2人から目を逸らすあの運動? しているシーンに繋がるわけですよね。
こういう、「一筋縄ではいかない」芝居を見たかったんだよなー。
Gレコもあと4話。
盛り上がってまいりました。
あと1か月弱、楽しもうね。
さて、関西圏の人達はすでに23話「ニュータイプの音」を見ている訳で、関東組も今日深夜には見られるのですが…
BS組のぼくは、土曜深夜まで待たなければなりませぬ。
そんな訳で、23話を見てしまう前に、もういっちょ22話の感想を。ラストシーンですよ。
MSを操縦できるようになり、オマケにMSを入手して、マスクの元へ戻るマニィ。その顔はまるで満艦飾マコちゃんだ!(その前に「満艦飾!」って台詞もあるし…)
コックピットの中で、マニィは喜びをにじませながら叫びます。
「ルイン! ルイン・リー!」
味方だと識別してもらうために、光信号を入力します。
ところが、マスクか自分の名前を入力すればいいものを、ルイン・リーと入力するマニィ。恋は盲目、人の目を濁らせるのか。
いやいや、マニィの頭の中は「ルイン・リーの元に帰って来た」ことで一杯なのでしょう。
だからこそ、「マスクー! 光信号を読んで下さい!」の台詞も、マスクではなくルインと呼んで欲しかったんだけれど…
光信号の意味を解したマスクは 「あの機体、圧倒的な味方となります」と言います。
マスク=ルインと知っているのはマニィだけのはずで、つまり光信号の主はマニィと分かったはずです。
が、マスクは「あのパイロットは味方です」と「人」を主題にするのではなく、「あの機体、圧倒的な味方となります」とメカを中心にします。
ここら辺、2人のズレだよなー。
この回はベルリママの反応もそうなんだけれど、地球圏にいて「受け入れる」立場の人の再会時の反応が、帰って来たキャラが望んでいるそれとは違うんだよね。
もっともマニィは、そんなマスクの反応なんて知る由もありませんが…
バララが(おそらくわざと)ヘルメットをマスクの方に流して、近寄ってきます。
バララの質問に対し、「フルムーンシップの存在を知れば信じるさ」とマスクは答えます。
次のシーンですよ!
バララはマスクが持っていた自身のヘルメットを取り、「すいません」
マスクは「あ?」
たった一言なのに、急に距離ができる中原麻衣さんも、すごくバカっぽい・女心を理解していない佐藤さんの演技も、本当に素晴らしい。
ぼくまた、「声優にスキルいるの?」って言った成金を揶揄する?
いや、もういいや。「すいません」「あ?」はホントに巧みで、何回も聞き返しちゃったよ。
気付かなかった人は、是非もう1度聞いてみては? 声優ってすごい。
で、ここ、もう1ついいのがさー。
マスクの顔がすごくヌケている。口をポカンと空けていて。
当然わざと口を空けている以外にも、顔がちょっといつもと違っていて。作画が乱れているのか、わざとなのか、絵心のないぼくには分からないけれど。
まあでも、良い効果になっています。
この後、マスクは機体に近づいて、「凄いものだ…」
オマエ、中に入っているパイロットのことを気にしろよ!
そして、マニィがコックピットから姿を現します。
「一人なのか?!」
「いっしょけんめい練習しましたから、一人です!」
この台詞さー。あやひーさん、「う」を言ってないよね。
つまり「一生懸命」ではなくて、「一所懸命」って言ったんですよ、マニィは。
そうに違いない。そう思い込んで話を進めます。違っても知らん。
「一所懸命」と「一生懸命」について、放送文化研究所のHPでは次のように説明しています。
「一所懸命」[イッショケンメイ]は、「昔、武士が賜った『一か所』の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きたこと」に由来したことばです。これが「物事を命がけでやる」という意味に転じて、文字のほうも「一生懸命」[イッショーケンメイ]とも書かれるようになりました。今では、「一所懸命」よりも「一生懸命」と表記・表現される場合が多くなっています。
多くの辞書が今も両方を見出し語として載せていますが、新聞社や雑誌社では、外部からの寄稿などを除いて「一生懸命」に統一しているところが多いようです。放送でも「一生懸命」を使っています。
メガファウナにいても、結局はルインの元へ戻ったマニィ。
そのマニィには、「一生懸命」よりも・一か所の領地を守って生活の頼りにしている「一所懸命」の方が、ピッタリだと思いませんか。
一所懸命なんです、マニィは。
彼女は自分の命を危険にさらしてまで、マスクではなくルインの名前で光信号を打ったんだよ。
マスクではなく、ルインの元に戻って来たんだよ。
だったらさー。
「先輩! ルイン・リー!」と歓喜して飛び込んでくる女の子を、マスクを外して・ルインとして受け止めてやれよ。
なんでマスク付けっぱなしで、マスクとして抱きしめているんだオマエは。
シャアのように素顔を隠さねばならぬ理由もなし、外せ外せそんなもの。
女と抱擁したって、周囲は誰も見てなかっただろ。マスク外しても誰も注目しないかもよ。
いや、ちょっと人目が気になっても、外せ!
涙を流すマニィに対して、マスクで表情を伺えないマスクは(ややこしいな)、ちょっと不釣り合いに感じたんだよね。ぼくは。
まあこのシーンはアレですよ。
チャップリンの『街の灯』のラストシーンと同じ。チャップリンの正体が盲目だった少女にも分かって、ハッピーエンドに見えるシーン。
でも某映画評論家によると(もったいぶっているのではなく、誰か忘れちゃった)花の位置が非常に画面的に不安定で。2人の将来が安泰ではないことも暗示できるような、視聴者に一抹の不安を抱かせる「花の位置」なんだって。
素直に涙を流しているマニィと、マスクを付けたままのマスクを見た時、この『街の灯』の解説を思い出してしまったんだよなあ。
幸せになれよ、マニィ。MSに乗ってはしゃぐなよ。
蛇足。
アイーダ様は、想像していたより達者な包丁使いだった。
家庭的な女王様なのだ!
さて、Gレコが最終回を迎えました。
ラストから数話は、物語世界に引き込まれっぱなしでした。
ブログのネタはたくさん。書きたいことが色々ある。意欲はある。気力はない。
全体的な感想としては。これ、同好の士から反感買うかもしれないけれども。
富野ファンのぼくとしては大満足、でも他人に薦めることはしない、です。
どうしても、ぼくの目からすると「富野監督の集大成」って要素が上積みされるし。それにイデオン以降、やっぱり富野作品には納豆とかくさや的な要素があるじゃない? 好きな人にはたまらない味だけれど、的な。
Gレコにもやっぱりその要素はあるので、お薦めはしません。ぼくとオマエは味の好みが違うからね。
あ、ファーストよもう1度的な「ぼくのGれこ」を考えた人はホラ、ORIGINあるから。おめでとう。
ちなみにぼくも劇場でORIGIN見ました。ズブの素人の感想ですが、「安彦さんの絵をアニメでここまで再現するのは・もの凄いことなのではないだろうか」と思いました。
あと。『Gレコ』の感想はもちろん人それぞれですが。
例えば、
ノレドはこれからどうなるんだよ、とか
ベルとアイーダは結局姉妹なのか・違うのか、とか
各陣営は今後どうしていくのか、とか
「何も結末が提示されていないじゃないか!」との批判には、「どうしてそんなに答えを求めるんだ、テストでもあるまいし」と思います。
粋じゃないね。まあベルとアイーダに関しては、ぼくも本当は答えが知りたくてかなり痩せ我慢していますが…
さて。ココからが本番。
マスクをつけた当初はネタにされていた感もあるルイン先輩ですが、ラスト数話で俄然主役の座に躍り出てきました。
その原因は詰まるところ・マニィとの関係改善であり、そしてベルリと戦う理由が「俺は恵まれていない、奴は恵まれている」点にあったと思います。
そりゃ生まれも育ちも良くて特進の天才よりは、生まれがクンタラで何とかその劣等感を埋めようとするけれど・いつもその天才に邪魔される人間の方に感情移入しやすいよね。
「恵まれない主人公(もうマスクを主人公にしちゃった)の側に、全ての面で恵まれた人物がいる」ってのは、富野アニメはともかく、映画では何本かの傑作を生み出しています。
で、それらの映画の主人公は、運命に抵抗を試みても結局は破滅的な最期を迎えるわけですよ。
ぼくが真っ先に思いつくのが、アラン・ドロンの『太陽がいっぱい』=トム・リプリーですね。
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そしてもう1作、もっと「恵まれた者と・恵まれていない者」の差が徹底的なのが、シャブロルの『いとこ同士』です。
あらすじはWiki から。
田舎で母親に育てられたシャルル(ジェラール・ブラン)は大学で法学を学ぶため、パリに住む従兄のポール(ジャン=クロード・ブリアリ)のアパルトマンに移り住む。
ポールは女たらしの遊び人であり、アパルトマンに訪れた女が彼の子供を身ごもったことを話すと、ポールは女に金をわたし、中絶を命じて追い払う。
パリ見物に誘われたシャルルは、とあるクラブで出会った美女フローランス(ジュリエット・メニエル)に恋をする。翌日行われたパーティーでシャルルはフローランスと心を通わせることになる。さらにその翌日、シャルルはフローランスとデートの約束を取り付けるが、互いに時間を取り違えてしまう。
フローランスはポールのアパルトマンでシャルルを待つうちに、ポールに生真面目なシャルルとの恋は上手くはずがないと説得され、電撃的にポールに惹かれてしまう。シャルルが帰宅すると、フローランスとポールは同棲を始めることにしたと話す。
Wiki ではここまでだけれど、女を奪われたシャルルは勉学に打ち込みます。が、学校の試験には落ちてしまう。でも遊びっぱなしのポールは合格するんだよね。
そして…ってことなんだけれど、シャルルはただポールより劣っているだけで、どんどん不幸になって最期は最悪の結末を迎えるんですよね。大瀧詠一の曲とは逆ですよ。
ぼくはこの2作を見ているので、マスクも最悪の結末を迎えるだろうな、と思っていました。終盤はキャラクターがバタバタ死んでいたし。
ところが、ですよ。
彼は真のパートナーとしてのマニィを得て、大気圏を突破し、ベルと対決しても生き残り、ラストではマニィと新しい人生を始めた。
これは正直ビックリすると同時に、安堵感も覚えました。
レコンラジオ最終回によると富野監督は今回、「『皆殺しの富野』にはならないように」と留意していたそうです。その割には随分と死にましたが…
もしこの方針がなければ、マスクは死んでいたかもしれません。
でもマスクは生き残りました。
これで良かったと思います。
自分の生まれや境遇や才能に負けて、その結論としての破滅・死は、生きる甲斐がなさすぎるじゃないですか。
『太陽がいっぱい』のトム・リプリーは欲と嫉妬に負けて、殺人を犯し、しかし露見しました。
『いとこ同士』のシャルルは全ての面で勝る従兄に打ちのめされ、しかしその従兄を殺すことにすら失敗して生涯を終えました。
でも、マスクは。ベルに勝つことは出来なくても、生き残りました。世界を回って、しかも隣にはマニィがいます。
『Gレコ』という作品には、この結末・というか「これから」が相応しいのではないでしょうか。
なにせ『Gレコ』は元気のG! なのですから。簡単に死んでたまるか。
今回はED『Gの閃光』の話を。
まあ富野(井荻麟)作詞の歌といえば、スゴく頑張っている方がいらっしゃるのでアレなんですが。アレってなんだ。
気が引ける。
いや、ぼくが書きたいのは作詞の内容ではなくて、存在感というか、Gレコ視聴の印象に『Gの閃光』が与えた影響についてですよ。
『Gの閃光』ほど、視聴者の印象を支えたEDは無かったんじゃないでしょうか、富野作品の中で。
EDって、まあ富野作品以外のアニメでもそうだと思うんだけれど、作品の世界観の補強だったり、ちょっと余韻を残す役割だったり、だと思うんですよね。
あと最近ではキャラを立てるための、つまりはキャラソンだったり。
富野作品のEDではおそらく、ファンからは『コスモスに君と』『乾いた大地』なんかが評価高いと思うのですが。
ぼくも作品感が良く出ていて好きです。
でも『Gの閃光』って、もうちょっとこう、ガッツリと作品の中心に噛みこんで来ている印象ありません?
例えば、ちょっと「この回どうだろう?」って思ったり、何か暗い方向に話が流れたり、もっと言えばキャラが死んじゃったり、「うわあ各陣営が混ざって分からなくなってきたぞ」となっても(監督が単純と言っても、「単純」に考えても3陣営×2はある)、
本編終った後に『Gの閃光』が流れて、みんなラインダンスしたら。あ、デレンセンとカーヒルはちょっといないけれど。
『Gの閃光』が始まったら。
元気のGで、つかめプライドで、つかめサクセスで。
言葉悪いけれど、本編のイメージがちょっと誤魔化されるというかね。もしEDが他の曲だったら、Gレコの印象も評判もガラリと(悪い方に)違っていたかもしれない。
でも『Gの閃光』聞くと、ポジティブになるし、作品全体の印象すら変えている。
縁の下の力持ち、ではなくてもっと顔出して、作品を支えていると思うんだよね。敢えて言うと、「EDのくせに」。
作品の中央で、「エイヤッ」と全体を支えているんですよ。ぼくの中の『Gの閃光』は。
さらに歌っているハセガワさんが、もともと仮歌だけの予定だった、と知っていると。
つかめプライド、つかめサクセスって歌っちゃうとさあ。
それは心に響くじゃない、当然。もともとの力に、プラスアルファがあるじゃない。
この歌が本当にそんな歌詞を実現させちゃうかも、いや実現しろって応援したくなるでしょ。
だから何かもう、アニメ本編も歌手も巻きこんでホントいい歌だと思うのよ、『Gの閃光』。
前に、アニメ紅白歌合戦的な番組で。
福山さんがキンゲ歌うと、MCさんも出演者もみんなモンキーダンスしていたのが印象深かったけれど。確か女性MCは喜屋武さんだったかな。
今回、Gレコではイベントでも打ち上げでもラインダンスなさったようで。
でも、『Gの閃光』はEDだよ! こんなに盛り上がって1つになって元気になれるEDは稀有なのでは。
「元気のG」ってかなり印象の強い言葉だと思う。
その理由って公式サイトに掲載された富野直筆のコメントもあるけれど、やっぱりこの歌の力が大きいでしょう。
だって冷静に考えたら、よく意味分からないでしょ? 「元気のG」って。頭文字? そしてGのレコンギスタ~だよ。何だよレコン「ギ」スタ。
でもOK。
ガンダムは「ニュータイプ」、∀は「黒歴史」って言葉を生みだした。
一般までは広がらないけれど…ファンにとっては、Gレコには「元気のG」があるんだ!
ツイッター上では今、デレンセンやカーヒルを加えたラインダンスの創作絵が回ってきている。
そうさせたくなるのは、あの絵・演出もいいけれど、歌の力が大きいと思います。
ぼくもこんな文章書いちゃっている。社会人なのに。おっさんなのに。しかも文章書く仕事しているっていうのに。
みんなを動かす。『Gの閃光』。
元気のGだ!
さて。本当は「ベルリは天才ゆえに周囲の人を不幸にさせる」(主にマスク)って記事を書きたいんだけれど、これには他作品のエグザンプルを示さないと説得力が生まれなくて。
でもぼくには映画『アマデウス』くらいしか思い浮かばなくて。
ハチクロとか読んでいたら、関連付けて記事にできたかしら。誰か書いてくれ。
さて、24話について・どうして書きたかったかと言うと。
シリアスとユーモラスな部分が同居している、職人技の腕をコレデモカと見せ付ける回だなあ、と思ったもので。
まず冒頭、バララが衆目の前でマニィを褒めて、しかし耳元では「私はいっぱい良い思いをさせてもらったから、大事にするんだよ」と囁くところが、もう「うわっ」っとなるじゃないですか。
しかもこのシーン、クン・スーンはバララをちょっと睨み付けているんだよね。自分達のMSを無視して・マニィの活躍だけを褒めるのが気に食わないのか、それとも女の言葉の裏を読んでいるのか。
そしてユグドラシルに搭乗したら、「あの小娘をなぐり飛ばして、マスクに嫌われるのもイヤだが、何もできない女だと思われるのはもっとイヤだ!」ですよ、バララ。もう女って分からない。
この複雑さに富野好きは震えちゃうんです。簡単に心情や内面を説明できる人間(キャラ)なんて存在するか!
一方、マスクとマニィは軽くイチャつく。
マニィは「ベルリと友達になってください!」とマスクにお願いします。それなのに次回では、ベルを殺そうとするんですよ。女って分からない!
マスクは「ベルは権力者になる」と仲直りを拒否します。
偏見だなーとも思いますが、でもマスクの立場からすると・キャピタルタワーの運営長官の息子とアメリア軍総監の娘が結びついているって、脅威ではあるんですよね。
で、ここで例の。カバカーリーとユグドラシルの追いかけっこ? ですよ。
「しつこい」と思った方もいるでしょうが。ぼくも少し思ったけれど。
でも8秒ほどの描写なんですよね、アレ。
おそらく他の様々な描写が圧縮されているため、「え、ここでこんなに尺を使うの?」感が生まれるのだと思います。
まあユーモラスな場面ですよ。
マスクとベルリの和解の芽が無くなった緊張する場面の後に、このシーン。
緊張と緩和なんでしょ、「お笑い」の秘訣は。よく知らんけれど。
でさー。この次、あえて書くまでもないんだけれど。
ユグドラシルの進行先にカシーバ・ミコシの絵が入ってきて、逆にカバカーリーは薄くなっていく、この場面変換の繋ぎはホント自然に見ちゃうけれど、すごいよな。テクだよなー。
カシーバ・ミコシの中ではノレドが法皇様に金星の様子を話している。やはり「ナグ」同士。設定はどうした。
この後はクリムとミックの新MSや、月勢力の様子、アメリア軍の思惑などがギュウギュウに詰められて語られる。
勿論その中でも。
もうツバメ(マルC・平塚雷鳥)のことしか考えていないマッシュナーとか、ミック「サラマンドラには、耐熱フィルムのコーティングをしてもらいましたから」などの伏線がしっかり張られている。法皇様がないがしろにされているのも、短い描写で分かる。
また、クンパが「戦争をしたがる地球人というのは、腐りきっている」と心の中で呟きますが、「オマエは戦争を望んでいたんだろ!」とツッコミたくなります。
クンパ、アーミィ「僕らが求めた戦争だ!」
ジット一団「戦争を知らない子供たち」
場面がメガファウナ側へ。
顔のパックをしているステア。コックピットで大きなおにぎりを食べているラライヤ(口はしにご飯つぶ付けている!)。
この回、ここらへんの「息抜き」描写が絶妙なんだよね。
そしてアルケインがフルドレス装備。
話跳んじゃうけれど、もう先に言っちゃう。
このさー。「ドレス」を付けた機体で、アイーダは父親の死を目撃しちゃうわけじゃない?
スルガンの立場からすると、「ドレスを身にまとった娘を前に」死ぬんだよね。
安いドラマかもしれないけれど、好きよ。そういうの。
恥ずかしがらずに書いちゃうと、鋼鉄のウエディングドレスを着た娘が傍にいて、死ぬにしても・総監少しは良かったよね、って。
姫様もこの後、「フルドレスって、眩しいんだから!」って言うし。娘が眩しい花嫁姿になったんだから。
さて話を戻して、メガファウナ勢の出撃前。
ベルリ「長距離からの狙撃なんて、パイロットを殺すだけですから」
これを今後、バララがするわけです。
そして。
アイーダさまからついに、ベルリへお許しの言葉が出ます。
カーヒル大尉のことは、もう、あなた「は」忘れていいわ。
くう。さすが姫様。「カーヒル大尉のことは、忘れていいわ」とは言わない。
まあベルも元気なフリしただけかもしれないけれど、この後2人で見合って微笑むシーンもあるし、ここが完全な和解の描写なのかな。
メガファウナ艦内、ステアはなんで自分の髪の毛の匂い嗅いでいるんだ? 癖? 長いことシャワー浴びれてないのかな。
で、ユグドラシルの樹木ビームによる大量虐殺が始まります。
この戦闘シーン、富野ガンダムで「ビームが破られます」なんてセリフを聞くとはね。笑っちゃったよ。パリーン。
この次々と人が死んでいく戦闘シーンにおいても、ラライヤにおいてかれちゃうリンゴくんなんて、和めるシーンを一瞬挟んでいる。
こういうところです、この回が好きな理由。
ユグドラシルに突っ込むアルケイン。姫様のバイザーに、テンダービームが写り込んでいる! この描き込み、痺れるね。
で、ユグドラシル撃墜。
脱出ポッドが排出されたけれど、爆発に巻き込まれたので・バララは死んだものだと思っていたら。
富野がインタビューで、「24話でバララを生き延びさせているのは」とか言っているし。
ええええ。じゃあアレン・ブレディも生きていると思っていいですか?
あとさー。
ユグドラシルが爆発を始めた状態になってから、アイーダパパが死ぬって、なんかこう、どうみんな? 意地悪いよね。この描写。
戦闘真っ盛りの時に殺してあげればいいのに。
しかもアイーダさまは「お父様は本当に停戦を信じていた…」って泣くんだよ。
いやいや、お父様は艦隊戦の指示出しているし。長期的には騙し討ちする気だったよ?
なんだコレ。人間が分かり合えるなんて幻想だ! 親子の間でさえ。
しかしこの回、シリアス一辺倒になっていなくて、本当に好みの回です。
今日はいつも以上に、「ぼくにとっては」って話になりますよ。
放映直前に、富野はGレコについて次のように語っていました。
「これ(ブログ主注・宇宙エレベーターのこと)は一種の交通手段なんです。そして交通手段にするためには、目的地に何かがなければいけない。つまりこれはロードムービーなんだということに気付いたんです」。(映画.com ニュース2014年8月23日より)
「これはコンテをやって初めて気がついたんだけど、『G-レコ』ってロードピクチャーなんですよ。地球から月、そして金星へと主人公たちがほぼ一直線に旅をして帰ってくる物語。ただのロードピクチャーだからこそ楽しくつくらなければいけない」。( 月刊ニュータイプ2014年9月号)
で、実はロードムービー(ピクチャーでもいいんだけれど)には、厳密には定義って無いようなんだよね。
面白いんだよ、「ロードムービー」をネット上の辞書で調べると。以下、列記。
【デジタル大辞泉】
主人公が旅を続けるなかで変貌し、自分を発見するという筋立ての映画。
【大辞林 第三版】
主人公が作中で旅や放浪をしながら,さまざまな出来事に遭遇したり変化していくさまを描いた映画。
【日本大百科全書(ニッポニカ)】
主人公が自宅や故郷を離れ、各地を旅しながら、旅の過程で成長や変貌(へんぼう)を遂げていく映画。陸路による移動が物語展開の基線をなすが、こうした物語形式の源には、『オデュッセイア』など、西欧の古代叙事詩がある。陸路をいくプロットは映画初期から採用されていたが、確固たるジャンルとして認識され、形成されていくのは、自動車社会が到来し、若者文化が興隆する第二次世界大戦後以降である。口火を切ったのは、『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー、1969年)や『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン、1967年)などのアメリカのニュー・シネマだった。日本でこの用語が普及し始めるのは、ドイツのビム・ベンダース監督作品が公開されるようになってからである。『まわり道』(1975)、『さすらい』(1976)、『パリ・テキサス』(1984)など、彼の作品には旅をモチーフとしたものが多く、そのスタイルを表現するために用いられるようになった。日本映画にも『幸せの黄色いハンカチ』(山田洋次、1977年)など、ロード・ムービーとよぶにふさわしい作品が生まれている。
【ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典】
陸路による移動が物語展開の基線を成す映画。アメリカ映画『イージー・ライダー』 (1969年) などがこれに該当するが,確固とした用語ではない。日本で急速に用いられ始めたのは,ドイツの W.ベンダース監督作品が公開されてからで,『まわり道』 (75年) や『さすらい』 (76年) など,彼の作品には旅をモチーフとしたものが多く,その特徴を表現するために使われるようになった。
どうですか、ちょっと面白いでしょう。
ブリタニカには「確固とした用語ではない」と明記されていますね。
だから、確固としたラインが無い言葉なので。例えば。
英Total Film誌が2012年に発表した「史上最高のロードムービー50本」を見ても。
「『俺たちに明日はない』は傑作犯罪映画だし青春映画でもあるけれども、ロードムービーって言われるとなー」って気がしちゃうのは、ぼくだけですかね?
では、ですよ。ぼくにとっての「ロードムービー」の絶対条件は。
「道程でドラマが起こる」ってこと。コレ、絶対。「目的地に着いてから」ではなく、「道程で」ドラマがあること。
これを満たしているのが、ぼくの思う「ロードムービー」。
それともう1つ。
コレは絶対じゃないんだけれど、できれば「物語の序盤で目的地が明示される」。
さて。このぼくの視点でいくと、Gレコってどうしてもロードムービーに見えないんですよ。
まず一番の要因は、道程での描写がほとんどないこと。まああの、マラソンくらいかな。思い出す道程での出来事って。
後はね、これぼくの「2」の条件にも重なってくるんだけれど、アイーダ様(あとベルリも)が思い付き・思い立ったが吉日・弾丸娘の勢いで行動するので、コマ切れに目的地が提示されるんだよね。
最初から「金星に行く!」って言ってくれれば、もっとロードムービー感あったんだけれど。
Gレコは、
「宇宙からの脅威の話を確かめるため、キャピタル・テリトリィに行こう」
「次はザンクト・ポルト」
「アイーダ様、真実を確かめるため月を指さす」
「アイーダ様、レイハントン家とドレット家の争いの原因がヘルメス財団にあるのならと、財団のあるビーナス・グロゥブに行ってみることを決意」
こう、目的地を小出しにされると…
しかも実際には、確かに「道程」での出来事ではあるんだけれど、ザンクト・ポルトに着いて1つの出来事、月に着いてまた出来事、金星に着いて出来事と、どうも「旅の途中での話」な感じがしないんですよ。
目的地に着いてからの物語、って感じがする。
これなら例えば、クルー同士でいさかいがあったり、主人公が「旅」から離脱したり、様々なドラマが移動中で生まれている初代ガンダムやイデオンの方が、ロードムービー感あったなー。
「2」の条件は満たしてないけれど。
これについては、氷川さんが藤津さんとの対談で面白い指摘をしています。
今回、「ロードムービー、旅ものにする」と語っていますね。もともと富野さんの作品は、ホワイトベースのように「グランドホテルがロードムービーする」というシステムが秀逸なんです。ゲストが来るときは大きな船がグランドホテルとして出迎えるし、それが動けばロードムービーになる。ドラマづくりに便利な構造をしています。
グランドホテル方式(ホテルのような一つの大きな場所に様々な人間模様を持った人々が集まって、そこから物語が展開する)と、ロードムービーの複合ってのは、さすがの見立てですね。
実際・富野作品に限らず、都合良く異星人などが東京・日本ばかり襲ってきた大昔の作品ならともかく、ロボットアニメにはこの要素が生まれますよね。
その上で。
じゃあ、ぼくが思う「ロードムービーなロボットアニメ」は。
3つ上げると。Gレコは入らないなー。
バイファム(カチュアー、もといカサハラー!)、モスピーダ、そしてキンゲ。
さて。ぼくはいい年ぶっこいてアニメを・特に1話は手当たり次第に見ています。
HDに溜まっているものを潰していくので、リアルタイムではなくかなり遅れているのですが。ヤマトとか東京ESPとかまだ未見だったり。
で、見ていても、Gレコのことを頭の片隅で考えていたりすることもあったりなかったりして(広川太一郎さん風)。
例えば。これが『城下町のタンデライオン』2話を見たときのツイート。
なんて甘酸っぱい展開なんだ…こんな時間にこんな思春期なこんなアニメ見ているこんなおじさんとは…
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2015, 7月 19
はなざーさんの声は可愛い…
しかし「携帯で話ながらベッドで跳ねる」「好きな人からの『電話』なのに机の上を片付ける、しかもそこを画面ブレで見せる」ってのは、分かりやすすぎるけれど・だからこそ力強い絵だよな。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2015, 7月 19
次にコレが『ダンまち』連続で見ていた時のツイート。
深夜で誰も見てないだろうから言うが、ベタとも言うべきシンプルさがもうちょっとあったら…とは正直思う。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2015, 7月 19
意図的に書かなかったけれど、コレは当然Gレコとの比較で呟いていたわけで。
富野の萌えアニメに対するコメントは、kaito2198さんがまとめているので読んでもらうとして。
あ、上記2作品が萌えアニメか否かみたいな反論は、鬱陶しいので勘弁してください。ぼくにはそう見えるってことです。
蛇足・より道ですが、ダンまちは大変面白かったですよ。女の子を可愛く描いているのはもちろん、戦闘シーンにも力が入っていて二度おいしい感ありました。
それに比べて、戦闘的要素がタイトルになっているあの作品ときたら…(以下略)
閑話休題。
まあ想像するに、Gレコはもちろん今後の富野作品でもおそらく「声優さんのオーバー気味な演技込みで」「頬を赤らめたり」「照れて口ごもったり・逆に早口になったりする」演出は、ないと思うんですよ。
ファンであるぼくは、そこにリアルさだったり・一筋縄ではいかないキャラ描写を見出して、うう気持ちいい…もっと…もっと…となるわけですが。
しかしその一方で、パターンと言えばパターンかもしれない描写でも、それゆえに分かりやすくて力があって、娯楽作品としてコレでいいんだよな、という気持ちもあります。一視聴者としては。
ストレートに伝わる力強さがあるよな、と。
特に上記ツイートにあるタンデライオンの画面ブレは、心情が分かりやすくて面白い演出だな、と楽しめたし。
ダンまちのあざとい(悪くはない)スキンシップ描写も、「GレコではMSでSEXの暗喩までしたのに、どうしてキャラでは素っ気無いんだ」と考えがいっちゃうしね。
いや、分かっているのよ。ないものねだりのI Want Youもっともっとってことは。
でもそう考えちゃうくらい、Gレコのキャラって魅力的なんだよね。
肝心のアイーダさま以外は…
ファンの欲目かもしれないけれど、ラライヤやノレドが回数重ねるごとに増していく魅力を思うと、「もっと人気がハネても良くね?」と思っちゃうんだよね。
だからこそさー。ありもしない描写、を夢想してしまうわけなんです。
ちなみにちょっと話からズレちゃうけれど、ぼくの好みは。
【女性キャラ幕の内弁当理論】
1、アニメ・漫画の女性キャラは幕の内弁当のおかずのように配置されているのを理想とする。
2、主菜が一番目立ち魅力的とする。
3、しかし副菜や箸休めも美味。
4、主菜は2人まで。
5、副菜などが主菜の位置に居座ることを認めない。
6、例外は起こり得る。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2015, 6月 16
例えば、えーと。マクロスFとか、最近のラブコメだとなんだ。ニセコイとか。
この理論にバッチリ当てはまると思うんだけれど。
アイーダ…いや、結局アイーダの話になっちゃうんだよな。
というのも、富野がどこかのインタビューで言っていたようだけれど、Gレコのアキレス腱ってアイーダ(とベルの関係性)だと思うから。
だからもし新作があるのだとしたら、2人の関係にズームアップしたGレコ版『密会』を希望しているの。
おじさんのノスタルジーじゃないんだよ。
むしろぼくは、過去作の焼き直し作品がリリースされ続けることにも、そしてそれが人気らしいことにも、孤独を感じているんだからね。もういいよ。
おまけ。
マッシュナーさんはセクシーショットが流出したけれど、ここで中の人のセクシーショットを見てみましょう。
あのくらい流出しても、全然恥ずかしくないぞ!(クリックしても拡大しない、商品ページにいくだけだよ)
語りたいことはまだまだあります。今回はそんな中の1つ。タイトルはシャレ? なんで、あまり深く考えないでください。
Gレコが始まる前。
アイーダとベルリが姉弟設定で・そして韓国ドラマの要素も取り入れていると事前に知っていて、しかもベルリがアイーダに一目惚れする展開を見たら、この2人の恋愛関係がどのように進展するのか非常に興味がありました。
「恋愛」を中心に展開を考えると、普通だったら「姉弟だった」と分かった所から、物語は本格的に動き出すはずじゃないですか。
そこからが本当のドラマのスタートですよ、普通なら。
姉弟でも愛を貫き・2人で逃避行か。お互い好きでも泣く泣く別れるのか。実は姉弟ではないことが分かってハッピーエンドなのか。
どのゴールにも辿り着けます。
ところがGレコは、本来ならドラマが始まる「姉弟だった」と判明した所で、2人の恋愛関係は終るんですよ。
しかも、ベルリの一方通行。アイーダにいたってはベルリからの想いに気付かないまま。
実は、恋愛ドラマが始まってすらいない。
勝手にベルリの中で始まって・終っている。これは恋愛ドラマと呼べるのだろうか。
そもそも、設定を思い直してほしい。
めぞん一刻直撃世代としては、
「恋敵は決して劣化することのない、むしろ美化されていく死者」というだけでワクワクするし、
しかも「自分の大事な存在を殺した人間を愛せるか」というのは一本の映画になるほどのテーマだし、
姉と弟の恋愛関係なんて、深刻にも・アニメ界ではライトにも扱えるインセクトタブーも取り入れているし、
ソポクレス『オイディプス王』 2015年6月 (100分 de 名著)
- 作者:
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2015/05/25
- メディア: ムック
しかも「憧れの年上のお姉さんと、活発な女友達」なんてラブコメにはおあつらえ向きな三角関係(カーヒルを入れたら四角関係)まで用意されていながら。
2人のラブコメ的展開がこうまでハネずに、姉弟と分かった時点で終了するなんてことがあるでしょうか。
いや、実際にそうなったのですが。
これは、職人技で設定はてんこ盛りにしたけれど、いざストーリーが始まると制作者の興味が別な方向に向かったので放り投げられてしまったのでしょうか。
断っておきたいのは、見た方にはもちろんお分かりでしょうが、Gレコで魅力的な恋愛関係が描かれていないわけではありません。
バララとマニィとマスクの三角関係は描かれていたし、
無邪気なラライヤと・リンゴとケルベスは短い描写ながらも面白かったし、
天才とミックは最終的に良い感じのカップルになったし、
妊娠したクンはいるし、サブキャラの恋愛事情は結構魅力豊かに描かれているんです。
何故設定がお膳立てされているのに、一番重要なキャラクターであるベルリとアイーダだけは尻すぼみになってしまったのか。
富野本人は、「自分がアイーダはカーヒルと寝たと勘違いしていたから、キャラが沈んでしまった」みたいなことを言っていたけれど、それが原因なのでしょうか。
ネットで「富野は処女厨」とか書いているのも見かけたけれど、アホか。
かつて、主人公とライバルの心を死ぬまで縛り続ける「永遠の女性」を、売春婦に設定した人間のどこが処女厨なんだ。
ベルリとアイーダの恋愛展開が尻すぼみになったのは、他に理由があるのではないでしょうか。
現実的な問題としては、ベルリにカーヒルを殺させた時点で、この2人の恋愛的展開は放棄されたと考えるべきでしょう。
先ほど「1本の映画になるほどのテーマ」と書きましたが、逆に言うと、本線の話は別にあるのに・26話程度で収められる話ではないのです。「自分の大事な存在を殺した人間を愛せるか」というテーマは。
そもそもGレコの世界では、これだけ要素が揃っているのに、ラブコメディ的な恋愛はほぼ許されない世界です(だからリンゴとケルベス偉い)。
Gレコ世界の「愛」の大半は、ちっとも美しくなければコメディにもならない。
マニィはマスクへの愛が故にベルリ(親友の想い人)を殺そうとするし、バララは嫉妬も手伝ってユグドラシルで大量虐殺。
マッシュナーは愛のためにおかしくなって、同僚を道連れにしてしまう無茶な行動。
そもそもアイーダが大好きなカーヒルだってアイツ、良い男ではないでしょ。いや、ルックスではなく。
落下するラライヤは放っておいて、機体を回収する男だよ。ぼくが考えるカーヒルって、自分のステップアップのために、アイーダをたらし込んだ下衆な野心家です。
アイーダの地位を目当てに、その愛を利用している男ですよ。
だからこそ主人公のベルリは、恋愛からは切り離される。
それでこその富野作品の新たな主人公です。「愛のために戦う」なんて、視聴者はそんなもんで心動かされますか? ニヤニヤ。
10話で「恋を知ったんだ、誰が死ぬもんか!」と叫んだ少年は、しかし物語中盤の16話でアイーダとの姉弟の関係を知り、恋愛感情から切り離される。
まだ10話もあるのに…姉萌えの展開なんか、もうない。
恋愛感情から切り離されたベルリは・だから最終回で、アルケインやダハックといっしょではなく単機で大気圏に突入して、マスク・マニィのカップルと戦う。
そして最後はノレドといっしょではなく、独りで旅に出る。
彼は、恋愛が素晴らしいことばかりではないGレコ世界の人間なので、独りで大人となる旅に向かうのです。
そして同時に、ラストシーンにおける・憑き物が落ちたかのようなマニィとマスクの2人の姿は、Gレコ世界の変容です。
「恋愛が素晴らしいことばかりではなかった」Gレコの世界でも、戦争が終れば恋愛を肯定的にとらえられる世界へと変わる、そのアイコンとして2人の姿は映し出されるのです。
前回に引き続き今回もタイトルはシャレ? なんで、あまり深く考えないでください。あと1つは何批判にしよう? タイトルだけ真似て読んだこともねーのに。
さて、Gレコにおいてアイーダとベルリは姉弟ということになっていますが、ぼくは全話を見た上で「ひょっとして姉弟ではないのでは?」と思っています。いました。どっち?
ツイッターで呟いたところ、僅かながら同意してくれる方もいたので心強くもなりました。
そこで何故ぼくがアイーダとベルリは姉弟ではないと思うのか、その要因を列挙し、さらにはその反駁も(つまりは姉弟である、という論拠)も自分で挙げていきます。
面倒なことするな、我ながら…
まず正直に告白しておくと、「Gレコ・純粋恋愛批判」でも書いたのですが、ぼくはもともと放送前に情報が小出しにされていた段階から、「この2人は始めは姉弟だと互いに認識しているけれども、やがて恋愛感情が生まれて、そして血縁関係があるのか・ないのか悩んだりしてドラマが生まれるのだろう」と考えていました。
さて実際に放送が始まって、ぼくが「やっぱり姉弟じゃないな!」と思った回は、他ならぬ姉弟であることが判明した第16話「ベルリの戦争」の時です。
この時、写真が3枚出てきます。1つは「1枚だけ残されていた」とミラジが説明し、ロルッカが差し出す写真。あと2枚は、アイーダが古い記憶を呼び覚まして見付ける写真です。
見てください。
写真1
写真2
1枚目の写真はレイハントン夫妻が写っています。髪の色が同じで面影もあり、母親とアイーダが実の親子であることは明白です。
問題は重なっている2、3枚目の写真。
上の写真は家族の写真ですが、子どもはアイーダしか写っていません。下の写真は全体が見えないので分かりませんが、構図をみるとアイーダだけが写っているように推測できます。
なぜベルリが写った写真がないのでしょう?
この疑問は物語内で考えるのではなく、制作陣の立場になって考えたいのです。
「家族の写真」を登場させるなら、ベルリを含めた4人の肖像で良いはずです。わざわざ3人であることには、意味があるのでは…
またアイーダはこの写真を見つけたことからも分かるように、生家に覚えがあるのですが、ベルリは全く記憶がありません。
子ども用のベッドを見て、「あれ、僕が使っていたんですか?」と言っているくらいです(ロルッカがあそこから落ちていた、と答えている)。
この回の後、2人は姉弟であることを受け入れて話が進む訳ですが、もう1つ、やはり血縁関係に疑義がでてくる回が終盤にあります。
それが第23話「ニュータイプの音」で、アイーダやベルリ達と、グシオンが対面する場面。
その時、グシオンは下記のように独りごちます(こちらのサイトを参考にさせていただきました)。
「ニューアークの育児園にいたアイーダの履歴は…」
「なぜ姉弟だと信じているのだ? アイーダは」
つまり、少なくともグシオンは姉弟ではない、と思っているのです。
この後は2人の関係を揺るがすような提示はなく、姉弟のままで話は進み、終ります。
では整理して、ぼくが「姉弟ではない」と思う理由と、考え得るそれへの反論を挙げましょう。
1、レイハントン家の写真に、ベルリが写っていない。
反論・ベルリが生まれる前の写真で、ベルリが写っている写真は全て失われているのではないか?
再反論・先に書いたように、問題は「なぜスタッフがベルリを含めた写真にしなかったのか」にある。そこには意図があるはず。
さらに考えられる反論は「ベルリが生まれてすぐ、集合写真を撮る間も無いくらいの時にレイハントン家に危機が訪れたことを暗示するためにベルリが写っていない」くらいでしょうか。
2、グシオンが「なぜ姉弟だと信じているのだ? アイーダは」と言った。
反論・グシオンはレイハントン家の事を知らないだけ。身元を隠して地球に亡命したのだから、グシオンが知らないのは当然。
実はこの反論、yahoo知恵袋で「アイーダとベルリは姉弟じゃないんですか?」と質問している人がいて、それへの答えに書かれているのものです。
回答者は2人いて、その内の1人はノレドのことを「レノド」って再三書いているので、まあアレなんですが…
勿論、このアンサーは成り立ちます。育児園の経歴は当然偽装だから、グシオンは知らないのだと。
ロルッカは、子ども2人をクンパ(ピアニ・カルータ)が捨て子として処理したなどと気軽に言っていますが、当然クンパは運を天に任せたわけではなく、身元を隠しつつ一方はアメリア軍最高責任者、もう一方はキャピタル・タワー運行長官というハイソサエティの家庭に行くよう手筈したと推測できます。
ぼくは読んでないけれど、wikiのグシオンの項目を見ると、プロデューサーがこのような旨を言っているようだし。
まあぼくは身元を隠して預けるより、クンパが信頼できる養子先としてグシオン家とゼナム家を選び、由緒ある身分を打ち明けて託した方が子どもの安全性は高まる・とすんなり得心できるんだけれども。
例のグシオンのセリフも、
(アイーダはどこで自分の出生を調べたのだろう?)
「ニューアークの育児園にいたアイーダの履歴は…(本当のことは書いていないはずだ)」
と解釈もできちゃうんだよね。
3、ロルッカの話によればベルリも乳児の時にはこの館で暮らしており、そしてアイーダは「写真の保管場所」を覚えているくらいの年齢まで暮らしていた。つまり2人はいっしょに暮らしていたはずなのに、アイーダは弟の存在すら知らない様子だった。
これは…考えようによっては、制作時の単純なミスって気もするけれど。
では逆に、姉弟であると思われる理由は。
1、そもそも初期設定では双子だったんだよ? その後、姉弟の設定になったんだから。
反論・答えは出来得る限り、本編のアニメの中から得るべきでは?
2、Gセルフを扱えるのが証拠。例のペンダントもある。
反論・ラライヤもGセルフを扱えるんだけれど…。あとペンダントは幼少の頃に受け取ったんだろうね。「2人が幼少の頃に一時期、一緒にいたかもしれない可能性」は否定しません。むしろ有り得る。
※コメント欄でご指摘いただいた通り、「幼少の頃に受け取った」はぼくの勘違いですね。2人を認識すると、排出される仕組みだったのかな。
3、アイリスサインは?
反論・アイリスサインって、良く分からない。「アイリスサインが2つも出ている」とカーヒルが言ったわけだけれども、アイリスサインがもし言葉通り虹彩による識別だとしたら・同じものが2つあったら困るんだよね、例え姉弟でも。肉親でも違うからこそ、識別に利用できるわけだし。
4、ロルッカやミラジが姉弟だと言った。
反論・うん。劇中では、だからこそアイーダもベルリも血縁関係を信じたわけなんだが。問題は、彼らがいわゆる「信頼できない語り手」である可能性はないのか、ってことなんですよ。
物語の中でも、彼らの言葉以外に2人が姉弟である証拠は何1つない。
ロルッカやミラジの仲間だったフラミニアは実はジット団の仲間だったわけだが、彼らの言葉もそのまま額面通りに受け取っていいのか。視聴者をミスリードするための「信頼できない語り手」である可能性もあるんですよ。
そもそも、アイーダとベルリを見つけたいからGセルフに仕掛けをしたって、どういうことだよ。
2人が偶然Gセルフに接触する可能性なんて、ほぼゼロだろ。そんなミラクルが起きた? 2人ともGセルフに?
あれ、これ設定批判になっているか? やめよう。
※コメントから指摘いただいて追加
5、マラソン回で、フラミニアが何かのデータを見ながら「やっぱり姉弟(きょうだい)?」と呟いている。
おそらく健康診断にかこつけて独自に調査していて、確認されたってことかなあ。
では結論として、アイーダとベルリは姉弟か、否か。
ぼくは否定派だったのだが、書いているうちにちょっと変わってきた…タイトルに偽りアリな気持ちになってきた。
ぼくが考える可能性は4つ。競馬のように書くと、
【本命】深読みしすぎ。そのまま、姉弟である。
【大穴】あの写真はやはり伏線だった! 語らぬが花、明示はしないが姉弟ではない。
【無印】ベルリはアイーダのクローンである。
ぼくは以前こんなツイートをしました。
ぼくは「ベルリはアイーダの弟ではなく、ウィルミットの実子でもない」をとる立場なんだが、ベルリがアイーダのクローンだと考えたら、全て解決する。しかもベルリの天才性もアイリスサインの謎にも一発解答な上、最初期の双子設定すら形を変えて生きていたことになる。ふははは怖かろう。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年4月25日
しかも、最終回でアッサリとノレドを置き去りにしたことも、「クローンだからちょっと人情味に欠けるのかな」と説明が付くし。ま、冗談だけれども。
で、4つめの答え。
【対抗】当初は「姉弟ではない」設定があったが、結局は「姉弟」になった。しかし「姉弟ではない」設定時の残滓が完成フィルムに散見されてしまった。
陳腐な「ぼくのかんがえたGれこせってい」を出して反論するよりも(もういじってやるなよ、俺)、ファンの方がよほど良い反論を書ける訳ですが・ちょっといまだにこのリンク先様からぼくのブログに足を運んでくれる方がいらっしゃるのだが。
バカを見に来たのかバカを見に来たのか。
話ずれた。ぼくがGレコを批判するとしたら。
その1つは、構想・本格スタートまでに時間がありすぎたせいか、ところどころに没設定の残滓があって、それがファンを惑わせることですね。
代表例は、教皇様とノレドが同じナグ姓であることなんですが。
初期設定では孫と祖父でも、それが物語に全く生かされず明示もされないなら、どちらかの名前は変えるべきだし、多くのファンが引っ掛かった会話シーンも削除すべきだと思うんですよね。
ノイズでしかない。なのに、フィルムには残っている。
ベルリとアイーダの姉弟問題も、この類はあり得るかもと思っています。
もし普通に姉弟なら、映画版があるなら例の写真を直して欲しいな、と思います。
ヒーローとヒロインに恋愛要素がないのはツマラナイし、かと言って尺が限られた映画で「2人の続きが、知りたい」いやそれよりも「青空をー越えてー」の方が的確か、そんな恋愛を・メインテーマならともかく添え物としては扱えないと思うので、ワンチャンスないかなあ。
アイーダとベルリが他人で結ばれる展開。
先日、HIGHLAND VIEWさんの「機械仕掛けの王に仕える、命ある暴力装置<ゲームにおける暴力コントロールのアイデアメモ>」という記事を読んで、アニメのキャラクターを縛る様々な要因について考えを巡らせました。
記事では「プレイヤーが主人の命令で動くゲーム」について書かれていましたが、私の思いは例えば映画やアニメではその「主人」が人物ではなく、様々な世界設定や心情として存在するだろうと脱線していったのです。
殺す相手に恨み辛みがないところに、このシステムならではのドラマが生まれる訳だが、その分「主人に仕える」世界観に強度が―納得できるリアリティが必要になる。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年7月8日
つまりは、それらの手間が必要ない時代劇は便利。スゴい。
先日このようにツイートしましたが、例えば史実でも明保野亭事件などを知ると、「どうして任務を遂行しただけで腹を詰めねばならんのだ…」と理解しかねてしまいます。
ここでは、当時の政治状況などが人間の動きを規制して、ドラマ(史実に「ドラマ」というのが適しているか分からないけれど)が生まれるわけです。
史実でもあり、物語としても消費されている忠臣蔵なども、様々な要因が人物を規制します。
では富野ガンダムシリーズにおける、「行動を規制するもの」を考えてみましょう。
例えばミハルは、自分を縛る「スパイ」という枠を超え始めたところが、後の悲劇をさらに強烈に彩るわけです。
さて一番の例はアムロとララァです。
アムロとララァはあれだけ惹かれあっているなら、一緒になってしまえば良いのにと思うわけですが、勿論それではドラマになりません。
ララァがアムロと一緒になれない理由は「シャアへの恩・愛情」「ジオン軍に属している」、こんな感じでしょうか。
他に何もないですよね。これがフォウになると、「記憶を取り戻したい」となります。
フォウはオーガスタ研を嫌っていたくらいの印象がありますから、まあ実はフォウの行動を規制する「主人」は「記憶」しかないと思うんですよ。
それであのドラマを作っちゃうわけですから、かなりの力業です。
ここで注目すべき点は、「じゃあアムロやカミーユが、女に寄り添えばいいんじゃないの?」と疑問が沸くわけです。
どうだろ。
アムロは「WBクルーとの絆」「シャアに勝ちたい」「連邦軍に属している」。アムロを規制している要因は…こんなもの?
カミーユに至っては…なりゆきで、ジェリドを殴ったとか。その後もエゥーゴにいた理由って、まあシロッコやハマーンが登場してからは義憤みたいなものも理由になりえるけれど、そんなに明確ではないよな。
他になんかあったっけ。
実は主人公の方が、惚れた相手のために鞍替えできそうな感じがしますが、彼らはそれをしないわけです。
まあ戦争なんで、「一人の突出した戦力が戦局を左右する」なんてのは自惚れで(戦争は数だよ兄貴!)、彼らは身一つで敵に寝返っても良いわけです。
なにせ異世界では西部のイモにキツイ一言いわれて、最新鋭機と共に鞍替えした聖戦士もいるくらいですからね。
ところが彼らはそれをしない。特にアムロ。彼はそれこそララァに「なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」と喝破されているように、戦う確固たる理由がないのでね。
富野ガンダムでは、色々な縛りから逃げ切れないキャラクターが描かれているわけです。それは例えば、表向きは好きな男のもとへ走ったレコアさんにしても同様です。
そこで悲劇が生まれます。
で、案外自由に動けるはずの主人公は、しかし彼女達の傍に行こう(敵陣営に寝返ろう)とはしません。
もし、アムロがもっと早くララァと出会っていたら、WBをガンダムもろとも脱走した時にジオン軍に寝返っていたかもしれませんね。ララァといっしょにいるために。そしてシャアと三角関係ラブコメ。「出会うのが遅すぎたのよ…」
ところで富野作品でも、ガンダム以外では自分の感情の赴くままに、なにも縛られることなく行動するキャラクターはいます。
その筆頭は、『エルガイム』のギャブレット・ギャブレーだと思うのですが。
(後半の)彼が魅力的に見えるのは、ポセイダル軍も立身出世ももはや関係なく、行動基準が「クワサンのため」と一貫しているからです。
そして、ついには富野ガンダムでも。
縛りがなく行動するキャラ達が作品世界の中でポンポン自由に跳ねていたのが、『Gレコ』だったわけです。
この記事を書く前、頭の中でここまでの内容をぼんやりと考えていた時に、真っ先に思い浮かんだGレコのキャラはリンゴくんのことでした。
アイツ、捕虜になった先で女に惚れて、そのまま積極的に(ラライヤを守るため)戦闘に参加しおって…
こう考えると、物語における「キャラクターの行動を制限する概念」って重要だな。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年7月8日
アムロとララァは敵味方に分かれていたから悲劇が生まれた訳だが、もし「軍属である」ことの意味がもっと軽いものだったとしたら…俺、好きな女出来ちゃったからジオンに寝返ろうみたいな展開も…ハッ、Gレコ!!
こんな呟きをした後で、改めて考えてみると、あ・リンゴだけじゃねえや。
そもそも主人公が海賊女に一目惚れして(髪の匂いハアハア)、クラスメートも母親の立場も考えずに、キャピタル・ガードをぶっちぎったんだった。
もともと、事前知識を意図的に入れていなかった私だけでしょうか。
Gレコ1話目を見終えた時に、「このままアイーダは海賊からキャピタル側に寝返るだろう」と思っていたのは。今までの富野ガンダムのパターンなら、そうなっていたはずです。
カツもサラを追いかけてティターンズに寝返ることはしなかったし、あの女! あの女!
ハサウェイはクェスを取り戻そうとしたけれど、ネオ・ジオンに入隊してまでクェスを守ろうとはしなかった。
ところがベルリくんは、アイーダにくっついてそのまま海賊の仲間になってしまった。もっとも本人は当初、戻る気があったみたいだけれど…
そしてベルだけじゃない。ノレドも当たり前のようにベルにくっ付いて動くし、マニィはキャピタル→海賊→キャピタルとUターン就職ですよ。いや、就職じゃないけれど。親友より愛しい男。
ケルベスもいつの間にかシレっと海賊側にいる。
ジット団だって「ビーナス・グロゥブ」全体の意思は無視してレコンギスタ始めるし、戦いが終ったら命のやりとりしたはずのメガファウナの一行と仲良く旅に出ているし・クンちゃん妊娠しているし、オマエラ自由だな! 色んなものに縛られて意中の相手といっしょになれず・悲劇にもてあそばれて死んでいった富野キャラ達に謝れ!
と、まあそれは冗談だが、彼らは戦時にも関わらず「自分の意思」で動く。これは戦いを描いたドラマにおいて、非常に特殊なことだと思います。
そしてその描写の原因は、例えば「この時代ではそういう行動が自然なのだ」「現在の軍隊とは性格が違うのだろう」などと考えるより、ぼくは「こう描きたかったのだろう、もう運命でも規範でもそれこそ主人(上司)でもなんでもいい、それらに嫌々従って死ぬキャラクターとは別な物語を見せたかったのだろう」と推察するのが好みです。
実はそこが、今までのパターンではないので視聴者の感情移入を損ねている要因な気もしますが、でも余りあるGレコ特有の魅力となっています。
軍や人とのしがらみなんか関係なく、自分達で行動を選択する。そして邁進する。
そのキャラクター達を精一杯追いかけているのが、Gレコです。鷹は自由に。
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