「母親の胎内」じゃない、「女神の檻」が大好き(『うる星やつら』と『めぞん一刻』) [アニメ周辺・時事]
今更な漫画(アニメ)について、ちょっと長々としたツイートになります。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
あたるが、うる星後の男主人公ラブコメ(ハーレムもの)の主人公と決定的に違うのは、2つ。まず積極的に女性にアプローチすること。そして、「好かれない」こと(例外は初期のしのぶと幽霊のみ)。その後のハーレム系主人公が複数の女性に好かれるのに対して、そこが決定的に違う。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
@sakaitetsu もし約束事があるのなら、それは「母性」の上になりたっているものではなく、「決して浮気が成功しない」=結果的に自分に一途になる男性と、さんま師匠いうところの「雷くらいで許してくれる」理想的な女性。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
@sakaitetsu そもそも、まあラムがロリ巨乳かどうかはともかく、「え、そんな容姿の女性に母性を見出すの?」という嫌悪感もアリ。まあ、母親が息子の交際相手に対して嫉妬を持つこともあろうが、ラムにしろ響子さんにしろ、嫉妬深さという共通の性質を持っているのは、
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
@sakaitetsu 恋愛に関する高橋の女性観と考えた方が、よほど素直ではあるまいか。また、よく指摘される高橋の「閉じた・終らない世界観」について、女性の胎内に結び付けるのは容易であろうが、個人的には我田引水かと感じる。
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
このツイートの後にも出てくるラムや響子さんの「母性」というか、彼女達を「母親」と見做す向きがあるのだが、高橋自身は彼女達をあくまで「女性」として描いている。
過去の対談・インタビューから3つ、以下に引用しよう。
「私は何を隠そう魔女の顔が大好きなんですよ(笑)。女の嫉妬とかわがままが好きでたまらないんです。それがなければ女じゃないし、ただ、きれいなだけの人形になっちゃうんですよね」(『語り尽せ熱愛時代』81P)
「(響子さんはどんな女性か、という質問に)女性のいーとこも悪いとこもすべて持ち合わせてる、総合的に私の理想の女性」(『ぱふ』1985年4月号)
「神々しくみえる理想の女性=マドンナが、そうはみえても人格は高潔でもなんでもない。見栄もはるし、意地もはる。たてまえなしの“女”だということを描きたかったのです。それがテーマのようものだと思います」(『アニメージュ』1986.4月号)
少なくとも高橋自身は、響子さんを(そしておそらくラムも)「女性」として描いていたようだ。
しかしそこに「母性」を見出して「うる星論」「めぞん論」を進めるのは、評者が男性だからなのか、女性には母性が備わっているから(それも眉唾物だが)滲み出てしまうのか、ぼくには分からない。
少なくともぼくには、彼女達に「母性」は感じない。
響子さんなど、「裏切ったら自分を見捨てるだろう」「男性にとって都合の良い女性ではない」ところが、ぼくにとっては決定的にリアルで魅力的だったのだが(Mではないです)。
自分のツイートの転載を続けよう。
@sakaitetsu 高橋は以前、何かのインタビューで「老人になって物忘れが激しくなったら、同じ漫画で何度でも笑える」と肯定的に語っていたはずだが、高橋の漫画像を端的に表していて好き。男性キャラのマチズモとか母性とか胎内とか、そんな話ではなく、
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
@sakaitetsu 「高橋が考える漫画の役割」(おそらくは現実からの避難場所)の形が、あの終らないどころか進みすらしない世界、現実とはキッカリと切り分けられた世界なのだと思う。さてこのぼくの文脈でいくと、押井BDは胎内からの脱出などが目的なのではなく、
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
@sakaitetsu アニメ(フィクションは)現実に決して繋がらないのか・虚構と現実は相対するもので交わらないのかという、その後繰り返し語られる点に集約されていると思う。その思考が、さらに当時言葉として成り立ち始めていたオタクの心性とも一致して、残るべき作品になったと思っている
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
@sakaitetsu あとはめぞんの最終回なんだが、一刻館が響子さんの胎内かどうかは置いておき(ぼくが言えば「漫画=空想世界の象徴」)、モラトリアムが継続するのがその通りだし、そこに高橋の特異な作家性を見出すことは可能かと思う。何せぼくは『あの花』の時に同じ要点について、
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
@sakaitetsu あ、前のツイ「継続するの『は』」だ。ともかく、映画『セント・エルモス・ファイアー』と比較して批判的な記事を書いているので(https://t.co/hOVVa8eSpa)、まさかめぞんだけ肯定するわけにもいかない(笑)。あそこで一刻館を出ないのは、
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
@sakaitetsu おかしな選択であり、そこに読者が意味づけする楽しさがあるのは間違いない。でも難しい自説を漫画・アニメを使って展開するのはインテリゲンチャらしいけれど、ぼくはもっと単純に、うる星もめぞんも最終回については(今は知らんけれど当時の)高橋の漫画観の宣言だと思うよ
— 坂井哲也 (@sakaitetsu) 2016年9月17日
高橋の漫画観とは、例えば
「マンガを読んでいる間は世の中のさまざまなことは忘れて、その世界を楽しんでいただけたらなと思いますね」
(ダ・ヴィンチのインタビュー)
ということである。そして、「終わった後も続いている=いつでも読者が戻ってこられる」世界であることが、少なくとも当時の高橋の中では、必須条件だったのではあるまいか。
「一刻館を出るか・出ないか」については、ぼくと異なる意見も載せておこう。
坂井さん(@sakaitetsu)も書いている『めぞん一刻』における「一刻館を出るかどうか問題」については、私は「出なくても問題はない」というスタンスです。
— HIGHLAND VIEW (@highland_view) 2016年9月19日
これに関しては過去ブログに記事を書いています。https://t.co/n6faVxeWqe
ちなみに高橋自身は、あの最終回のありようについて次のように語っている。
インタビュアー「読者としてはもっと続けてほしいと思ったのでは?」
高橋「だからとどめを刺そうといったら変ですけれども、数年後の姿まで描かなければ、私も終われないんじゃないだろうかと。だから、私は、見たかったんですよね、こんなに、幸せになりました! というところがね。これから出発だーとか、前途洋々ではいやだったんですよね。ちゃんとみんなぞれぞれいいところに納まって、で、何となく安定しましたという、その姿を見るまでは、なんか怖いなっていう。(『サンデー毎日』1987.5.31号)
この中の「いいところ」「安定」が、「一刻館で住み続ける」ってことなんだろう。
ひょっとしたら本人にとっては、深く考えずに自然におさまった結論なのかもしれないね。
さて、以上です。
余談だが、噂のあった「高橋が『ビューティフル・ドリーマー』をどう思っているか」について、2つ紹介しておこう。
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [デジタルリマスター版] [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: 東宝
- 発売日: 2015
- メディア: Blu-ray
「あれはあれで押井守さんの『うる星やつら』、私のじゃないということね。
『オンリ・ユー』なんかは手を叩いちゃったんですけど、あの後で見るとちょっと難しいというか」(『語り尽せ熱愛時代』170P)
「あれは押井守監督の作品と割り切って、楽しく観ましたよ」(画業35周年BOX発売のインタビュー)
※今回引用した記事のうち、いくつかは原典にあたっていません(ぱふ、アニメージュ、サンデー毎日)。これらの確度は保証できないので、ご了承ください。
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