『Gレコ』話題の10話で感じた特色。漫画でコメディーだ! [富野監督関係]
さて、今回の記事は。
今更感ありますが、荒木さんコンテ・演出で話題になった10話についてです。
の前に。
ご存知の方もいると思いますが、亜手さん(@ate507)による労苦の結晶を、微力ながら紹介しておきます。
亜手さんは『Gレコ』1~3話の、放送版とソフト版の違いをまとめました。
ソフト版第1話変更箇所まとめ
ソフト版第2話変更箇所まとめ
ソフト版第3話変更箇所まとめ
変更点、多いな…
変更意図が分かるところから、ぼくなどには理由不明の箇所まで、様々ですね。
1話で、ノレドがラライヤを2度見する変更は嬉しい。なにせ、母親役を務めることになるんだからな、この後。
シャンクのライトの光は随分気にしたみたいですね。2話ではそこ関連が全部修正入っている。
あと、3話放映時に1部の人が指摘していた、先行上映版にはあって・放映時には消えていたクラウンが復活したところね。
ぼくはもちろん、放映時に気付かなかったけれど。
あそこ、印象深かった人もいるようで、ぼくのフォロー数を絞っているTL上でも、確か「クラウンなくなった」って呟いていた方が2~3人いたはず。
このまとめ、興味深いのでファンの方は必見です。
さて、10話の話題にいきましょう。
15話まで見終えた今から振り返ると、冒頭から「おっ」と思う箇所があります。
以下の会話。
クンパ「(前略)あなたは法皇を人質に、海賊船でザンクト・ポルトに上がるつもりになったのでしょう?」
グシオン「想像のしすぎです」
15話まで見終えた現在から言うと、想像のしすぎじゃなかった。「海賊船」ではなかったけれど。
「宇宙から落ちてきた」というだけで、キャピタルから身柄を要求されるラライヤ。理不尽ラライヤ。
この前からケルベスさんが仲間になって、いよいよ各陣営の複雑さが増してきます。
まあ『Z』で、「同じ地球連邦なのにエゥーゴとティターンズに分かれていて、さらにシロッコやハマーンがいて分かりづらい」との批判があったくらいですからね。
その点、『Gレコ』はさらに今後入り乱れるので、ここは批判が集まるところかもね。
10話以降の話になるけれど、正直ぼくも・もうちょっとスッキリさせてくれ、とは思わないでもありません。各陣営が一枚岩じゃないのは当たり前、ってのも分かるけれども。
さて次のシーン。
MSの手の平の上で、演説をする首相のビルギーズ・シバ。
しかし演説の途中でシバが乗っているMSの手が下がり、変わってタカ派のベッカーが「上がってくる」訳ですから、ここの意味は明白です。
軍は完全に政治のコントロールから離れている、と。
ここら辺は直接的、分かりやすすぎるくらいです。
「男の娘」に見初められるMS・ウーシァ(あのシーン、それともベッカーに狙いをつけたのか?)
ケルベスに「お礼のステップ」をする姫。
ベルリ「お礼ができる人だったんだ…!」
会話の中では、メガファウナは宇宙に上がれる、宇宙からの脅威、など今後の展開の伏線も出てきます。
もし『Gレコ』の会話を批判するなら、「繋がってない」「意味分からない」程度ではなく、せめて「説明的過ぎる」「伏線が露骨」くらいにはしてほしいものだね。ニヤニヤ。
さてここで、高トルクパックが登場します。
公式HPには、「高機動・近接戦闘用のバックパック」とあります。キャピタル・アーミィが建造したものです。
車のトルクと同じ意味だと考えると、加速力が強まるバックパックってことですね。
ダッシュ力があるということなので。
まあだから、本来なら平原とか砂漠とか、遮蔽物のない地形でこそ本領を発揮するバックパックだと思います。
劇中に入り込んで言うなら、「密林地帯での戦闘が想定されるのに、高トルクパック付けるハッパさん大丈夫?」となるし、
「引いて」言うなら、「この場面設定で、高トルクパックの性能・戦闘をああ見せてくれたのはスゴイな」となるわけです。
『ビートマガジン』1月号の富野×荒木さん対談で、荒木さんが
(富野からの演出オーダーは)「沢山ありました。具体的なところで言えば、劇空間を芝居の都合で平らにしたり、広くしたりしないということです。例えば、木が立っていてそれが芝居を見せる上で邪魔だったとしても、それを利用した形での芝居作りを心掛けるというか、演出家の都合で舞台を平たんにしないように言われたことが印象に残っています」
と語っていましたが、この「木が立っていて」が実例なら、この戦闘シーンのことじゃないかなあ。
「見せ方」としても、高トルクパックと密林地帯って相性悪かったと思います。それをあそこまで楽しく…
この後、出撃前のウーシァが、ジュガンの喝で「コケる」シーンがあります。背後からライトを当てている構図も面白かったのですが…
実はこの10話、ぼくが「今までの富野作品の中でベスト回ではなかろうか」と思える点があります。
それが今回の記事のタイトルにした「特色」の1つ目。
それは、えーと。
「笑える」まではいかないけれど、最後のワニに襲われそうになるベッカーのシーンといい、今までで一番コメディーシーンで「にやけられる」な、という点です。
富野作品では例えばダイターンやザブングルがコメディー寄りの作品だとは思うんだけれど、じゃあニヤニヤできましたか、と聞かれると・少なくともぼくにはできなかった。
富野はかつてコメディーシーンについて、次のように語っています。
「やっぱり喜劇の真骨頂と言ったら、チャップリンのようなね、シリアスにやってるんだけどユーモラスで笑えるものですよ。ユーモアとかギャグは、シリアスがベースにないとできない、絶対に笑えないはずなんです」(『ザンボット3・ダイターン3大全』106ページより)
この言葉は『Gレコ』全体に通用するけれど、この10話は特に際立っているな、と思います。
その要因が富野脚本なのか・荒木さんのコンテ及び演出なのか、ぼくには分かりません。が、もちろんどちらの要素もあってでしょうが、荒木さんの要因が大きければ良いな、とは思っています。
新しいスタッフの力でさらに富野作品の魅力が増すって素晴らしいじゃないですか。
で、もう1つ。
もはや光源が不明な逆行の中で手を結び・腕を上げるキャピタル・ガードのMSや、
落とされるアルケインを見て「ハッパさーん!」と叫びながら振り返るベルリ(効果線あり!)や、
ネットでも話題になっていたドラゴンボールのような戦闘シーンなど。
ぼくはどうも、上記のシーンにはアニメというより、漫画の文脈を感じるんですよね。
ありもしない「原作漫画」のコマを忠実にアニメ化した感じがするんですよ、見ていて。
ドドーンとかズバッとか(ダサイな)、オノマトペが脳裏に浮かんでくるほどなんですよ。
それが、ぼくにとっての大きな「10話の特色」の2つ目です。
あの「ドラゴンボール」な戦闘シーンとか、ホントに漫画の息吹を感じるんだよな。あれだけ動いているのに。もちろん、悪く言っている訳じゃないよ。
むしろ、あの外連味は好き。多少のリアリティーを犠牲にしていいと思っているくらいだから、ぼくは。
例えばさー。
その前に、アルケインは対艦ライフルが木に引っ掛かって、捕まっちゃうでしょ。
その時には「密林の狭さ」ってリアリティを出しているのに、その後のGセルフは木々の存在なんかないように、高速で動くんだよね。高トルクパックはちゃんと木の上を飛んでいるけれど。
そのリアリティの飛ばし方って、連続して動くアニメーションっていうより・コマで区切ることができる漫画の文法のように思えるんだよなー。
これ、共感されないか?
まあいいや。コメディーに関しては、共感していただける富野ファンもいらっしゃるのでは。
さて、本編であと気になった箇所は。
ベッカー達出撃時の、チアガール「海賊船をやっつけろー!」は、相変わらず怖いところです。
やっつける、って敵を殺すってことなんだけれど、それを明るく言わせちゃうところが、『Gレコ』の怖いところなんだよね。
この「怖さ」は今後、主人公のベルリにも伝染します。
あと、アイーダさまファンは今回も楽しむことが出来ます。
さっきも少し書いた通り。
アルケインが対艦ライフルを持っている=支援用なのは、「アイーダを最前線に立たせたくない」という父親の意図がこもっているはずなのですが。
姫はでかい対艦ライフルを持って、密林地帯に入っちゃうから!
敵に襲われエアバックが出て、またブサイクな顔になるわけですが、それでも可愛いよアイーダさま。
あと、『Gレコ』で頻出する演出、背景色が変わるアブノーマル・カラーね。
今回はいつもと色合いが違った・明るかったですね。これも目新しかったです。
ベルの「恋を知ったんだ、誰が死ぬものか!」は、印象深いセリフですね。さらっと(ハッパさんに)告白。
でもその恋、インセスト・タブーかもしれないけれどね!
あと、まあロボットアニメのお約束で言えば、「むしろ死んじゃうかも」って気がしますから、ちょっとメタ的な面白さもある。モエラー!
最後、感動的な音楽のもと、アルケインを背負って「母だって許してくれる帰る場所=メガファウナ」に帰艦するGセルフ。
この描写は、2人の関係をそのまま表しています。言うまでもなく。
ベルリはアイーダを背負うように、サポートして今後の冒険を続けるわけです。
今回の10話は、前評判に違わぬ内容で、とても楽しめました。
今更感ありますが、荒木さんコンテ・演出で話題になった10話についてです。
の前に。
ご存知の方もいると思いますが、亜手さん(@ate507)による労苦の結晶を、微力ながら紹介しておきます。
亜手さんは『Gレコ』1~3話の、放送版とソフト版の違いをまとめました。
ソフト版第1話変更箇所まとめ
ソフト版第2話変更箇所まとめ
ソフト版第3話変更箇所まとめ
変更点、多いな…
変更意図が分かるところから、ぼくなどには理由不明の箇所まで、様々ですね。
1話で、ノレドがラライヤを2度見する変更は嬉しい。なにせ、母親役を務めることになるんだからな、この後。
シャンクのライトの光は随分気にしたみたいですね。2話ではそこ関連が全部修正入っている。
あと、3話放映時に1部の人が指摘していた、先行上映版にはあって・放映時には消えていたクラウンが復活したところね。
ぼくはもちろん、放映時に気付かなかったけれど。
あそこ、印象深かった人もいるようで、ぼくのフォロー数を絞っているTL上でも、確か「クラウンなくなった」って呟いていた方が2~3人いたはず。
このまとめ、興味深いのでファンの方は必見です。
さて、10話の話題にいきましょう。
15話まで見終えた今から振り返ると、冒頭から「おっ」と思う箇所があります。
以下の会話。
クンパ「(前略)あなたは法皇を人質に、海賊船でザンクト・ポルトに上がるつもりになったのでしょう?」
グシオン「想像のしすぎです」
15話まで見終えた現在から言うと、想像のしすぎじゃなかった。「海賊船」ではなかったけれど。
「宇宙から落ちてきた」というだけで、キャピタルから身柄を要求されるラライヤ。理不尽ラライヤ。
この前からケルベスさんが仲間になって、いよいよ各陣営の複雑さが増してきます。
まあ『Z』で、「同じ地球連邦なのにエゥーゴとティターンズに分かれていて、さらにシロッコやハマーンがいて分かりづらい」との批判があったくらいですからね。
その点、『Gレコ』はさらに今後入り乱れるので、ここは批判が集まるところかもね。
10話以降の話になるけれど、正直ぼくも・もうちょっとスッキリさせてくれ、とは思わないでもありません。各陣営が一枚岩じゃないのは当たり前、ってのも分かるけれども。
さて次のシーン。
MSの手の平の上で、演説をする首相のビルギーズ・シバ。
しかし演説の途中でシバが乗っているMSの手が下がり、変わってタカ派のベッカーが「上がってくる」訳ですから、ここの意味は明白です。
軍は完全に政治のコントロールから離れている、と。
ここら辺は直接的、分かりやすすぎるくらいです。
「男の娘」に見初められるMS・ウーシァ(あのシーン、それともベッカーに狙いをつけたのか?)
ケルベスに「お礼のステップ」をする姫。
ベルリ「お礼ができる人だったんだ…!」
会話の中では、メガファウナは宇宙に上がれる、宇宙からの脅威、など今後の展開の伏線も出てきます。
もし『Gレコ』の会話を批判するなら、「繋がってない」「意味分からない」程度ではなく、せめて「説明的過ぎる」「伏線が露骨」くらいにはしてほしいものだね。ニヤニヤ。
さてここで、高トルクパックが登場します。
公式HPには、「高機動・近接戦闘用のバックパック」とあります。キャピタル・アーミィが建造したものです。
車のトルクと同じ意味だと考えると、加速力が強まるバックパックってことですね。
ダッシュ力があるということなので。
まあだから、本来なら平原とか砂漠とか、遮蔽物のない地形でこそ本領を発揮するバックパックだと思います。
劇中に入り込んで言うなら、「密林地帯での戦闘が想定されるのに、高トルクパック付けるハッパさん大丈夫?」となるし、
「引いて」言うなら、「この場面設定で、高トルクパックの性能・戦闘をああ見せてくれたのはスゴイな」となるわけです。
『ビートマガジン』1月号の富野×荒木さん対談で、荒木さんが
(富野からの演出オーダーは)「沢山ありました。具体的なところで言えば、劇空間を芝居の都合で平らにしたり、広くしたりしないということです。例えば、木が立っていてそれが芝居を見せる上で邪魔だったとしても、それを利用した形での芝居作りを心掛けるというか、演出家の都合で舞台を平たんにしないように言われたことが印象に残っています」
と語っていましたが、この「木が立っていて」が実例なら、この戦闘シーンのことじゃないかなあ。
「見せ方」としても、高トルクパックと密林地帯って相性悪かったと思います。それをあそこまで楽しく…
この後、出撃前のウーシァが、ジュガンの喝で「コケる」シーンがあります。背後からライトを当てている構図も面白かったのですが…
実はこの10話、ぼくが「今までの富野作品の中でベスト回ではなかろうか」と思える点があります。
それが今回の記事のタイトルにした「特色」の1つ目。
それは、えーと。
「笑える」まではいかないけれど、最後のワニに襲われそうになるベッカーのシーンといい、今までで一番コメディーシーンで「にやけられる」な、という点です。
富野作品では例えばダイターンやザブングルがコメディー寄りの作品だとは思うんだけれど、じゃあニヤニヤできましたか、と聞かれると・少なくともぼくにはできなかった。
富野はかつてコメディーシーンについて、次のように語っています。
「やっぱり喜劇の真骨頂と言ったら、チャップリンのようなね、シリアスにやってるんだけどユーモラスで笑えるものですよ。ユーモアとかギャグは、シリアスがベースにないとできない、絶対に笑えないはずなんです」(『ザンボット3・ダイターン3大全』106ページより)
この言葉は『Gレコ』全体に通用するけれど、この10話は特に際立っているな、と思います。
その要因が富野脚本なのか・荒木さんのコンテ及び演出なのか、ぼくには分かりません。が、もちろんどちらの要素もあってでしょうが、荒木さんの要因が大きければ良いな、とは思っています。
新しいスタッフの力でさらに富野作品の魅力が増すって素晴らしいじゃないですか。
で、もう1つ。
もはや光源が不明な逆行の中で手を結び・腕を上げるキャピタル・ガードのMSや、
落とされるアルケインを見て「ハッパさーん!」と叫びながら振り返るベルリ(効果線あり!)や、
ネットでも話題になっていたドラゴンボールのような戦闘シーンなど。
ぼくはどうも、上記のシーンにはアニメというより、漫画の文脈を感じるんですよね。
ありもしない「原作漫画」のコマを忠実にアニメ化した感じがするんですよ、見ていて。
ドドーンとかズバッとか(ダサイな)、オノマトペが脳裏に浮かんでくるほどなんですよ。
それが、ぼくにとっての大きな「10話の特色」の2つ目です。
あの「ドラゴンボール」な戦闘シーンとか、ホントに漫画の息吹を感じるんだよな。あれだけ動いているのに。もちろん、悪く言っている訳じゃないよ。
むしろ、あの外連味は好き。多少のリアリティーを犠牲にしていいと思っているくらいだから、ぼくは。
例えばさー。
その前に、アルケインは対艦ライフルが木に引っ掛かって、捕まっちゃうでしょ。
その時には「密林の狭さ」ってリアリティを出しているのに、その後のGセルフは木々の存在なんかないように、高速で動くんだよね。高トルクパックはちゃんと木の上を飛んでいるけれど。
そのリアリティの飛ばし方って、連続して動くアニメーションっていうより・コマで区切ることができる漫画の文法のように思えるんだよなー。
これ、共感されないか?
まあいいや。コメディーに関しては、共感していただける富野ファンもいらっしゃるのでは。
さて、本編であと気になった箇所は。
ベッカー達出撃時の、チアガール「海賊船をやっつけろー!」は、相変わらず怖いところです。
やっつける、って敵を殺すってことなんだけれど、それを明るく言わせちゃうところが、『Gレコ』の怖いところなんだよね。
この「怖さ」は今後、主人公のベルリにも伝染します。
あと、アイーダさまファンは今回も楽しむことが出来ます。
さっきも少し書いた通り。
アルケインが対艦ライフルを持っている=支援用なのは、「アイーダを最前線に立たせたくない」という父親の意図がこもっているはずなのですが。
姫はでかい対艦ライフルを持って、密林地帯に入っちゃうから!
敵に襲われエアバックが出て、またブサイクな顔になるわけですが、それでも可愛いよアイーダさま。
あと、『Gレコ』で頻出する演出、背景色が変わるアブノーマル・カラーね。
今回はいつもと色合いが違った・明るかったですね。これも目新しかったです。
ベルの「恋を知ったんだ、誰が死ぬものか!」は、印象深いセリフですね。さらっと(ハッパさんに)告白。
でもその恋、インセスト・タブーかもしれないけれどね!
あと、まあロボットアニメのお約束で言えば、「むしろ死んじゃうかも」って気がしますから、ちょっとメタ的な面白さもある。モエラー!
最後、感動的な音楽のもと、アルケインを背負って「母だって許してくれる帰る場所=メガファウナ」に帰艦するGセルフ。
この描写は、2人の関係をそのまま表しています。言うまでもなく。
ベルリはアイーダを背負うように、サポートして今後の冒険を続けるわけです。
今回の10話は、前評判に違わぬ内容で、とても楽しめました。
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