「故郷がない」富野由悠季監督は、しかし故郷探しの旅を描き続けるのだった。 [富野監督関係]
はじめに
以前、「富野由悠季監督と出身地」という記事を書こうと富野関連の書籍を読み返している時に、ある事実に気付いた。
富野監督は以前から、「自分には故郷がない」と言い続けていることに。
富野監督には故郷がない
いや勿論、前から何回もこの種の発言を読んではいたけれど、再認識したのだ。
富野ファンならご存じだろうけれど、富野監督の発言内容には流行廃りがある。
でも、この「自分には故郷がない、小田原は故郷ではない」は、それこそ『だから僕は…』から『「ガンダム」の家族論』に至るまで、ずっと語り続けている。
例えば『「ガンダム」の家族論』では、以下のような具合だ。
そういう態度(ブログ主注・親は「小田原に住んでいる」ではなく「寄留している」とずっと言っていた)で親が生活をしていると、いくら小田原で生まれ育っても、そこを故郷と感じることは難しい。“地つき”と呼ばれる、土地に根ざした感覚が生まれることはなかった(52ページ)
これに関連して、思い出したことがある。
中学生か高校生の頃、作家の平井和正氏と富野監督の対談を読んでいて、「えっ」と驚いた箇所があった。次の会話だ。
平井 (略)富野さんが書かれている根本的なテーマというのは『十五少年漂流記』のコンセプトじゃないかなって気がしたんですよね。
富野 ハハァ、そうですか。
(中略)
富野 僕自身の仕事の中では、先生のご指摘なさったような、『『十五少年――』というのは具体的に思いつかなかったんですけどね、(後略)(36~37ページ)
少年・少女だけで航海していくホワイトベースを見て、『十五少年漂流記』を連想しない人の方が少ないのではないだろうか。
それに、当時のぼくは知らなかったが、ガンダムの初期設定段階で思い切り『十五少年漂流記』を参考にしているのは流布している話だ。
ガンダム以前のロボットアニメは、「主人公達には拠点となる基地があり、そこから出撃する」のが主流だった。マジンガーでも、ゲッターロボでも。
漂流する富野アニメの主人公
だが富野アニメの主人公達の拠点は、いつも移動する戦艦だった。
富野作品の中で、建物が主人公達の拠点となっている作品は、僅か『ダイターン3』一作しかない。
しかもその万丈邸でさえ、最後にはアッサリと空き家になる。
平井氏の指摘に対し、富野監督が「思いつかなかった」と答えたのは、嘘をついたのでも忘れたのでもなく、それが余りに自然なことだったからではないか。
主人公にいつも故郷はなく、作品の根底には「根無し草感・故郷探し」が流れ続けている。
それはトリトンからゲイナーまで、一貫している。
トリトンやアムロ、ショウのように、「故郷がなくなっていく過程」を丹念に見せていく場合もある。
ファーストガンダムのラストシーンで、アムロは「ぼくにはまだ帰れる所があるんだ…こんなに嬉しいことはない」と呟く。
やや唐突な感のあるこの有名なセリフも、重要な作品テーマの1つに「故郷の喪失」があったと考えれば、すんなりと飲み込める。
逆に、富野監督が精神的に最も変調を来たしていた時期に制作した『Vガンダム』において唯一、戦い後のウッソ達が故郷・カサレリアに帰還し、そこで過ごすシーンが描かれるのも、また象徴的ではあるまいか。
故郷を描かなかった・遠ざけていた、あるいは「描けなかった」富野が監督、深刻な鬱に苦しんでいた時期の『Vガンダム』だけは、序盤で長くカサレリアの様子を描き、ラストでも故郷に戻ったウッソの様子を描写した。
それは、富野監督の精神状態が、せめてフィクションの中だけでも「自分にとってあるはずのない故郷」を渇望したからではないだろうか。
危険な鬱状態を脱して制作した、新生富野作品とも言うべき『ブレンパワード』『∀ガンダム』『キングゲイナー』においても、当たり前のように主人公達に故郷はない。
その後のアニメ『リーンの翼』には、ぼくは思い入れがなく、1回しか見ていないから触れない。
が、異世界から故郷を思う迫水、そして実際に日本に戻ってきた時の描写を見れば、ぼくがこれまで書いてきた文脈で語るのは容易いだろう。
話を『ブレンパワード』以降に戻して。
勇はやっぱり故郷も家庭もなく、ノヴィス・ノアで生活しているし、しかも物語の核に居座るのは「宇宙を旅する」オルファンだ。
でもぼくは、『ブレンパワード』以降には、それ以前の作品とは違いがあると考えている。
それは想像だけれども、富野監督が「故郷を探していること」をさらに強く作品に反映させようとしたのではないか、という点だ。
そして、描くべきは「故郷を見つける」結末ではなく、「故郷を見つける課程」そのものにあること。
『∀ガンダム』『キングゲイナー』は、それまで物語の根底に流れていた「故郷探し」を、前面に押し出した作品だ。
この2作品は「故郷探し」という点において、表裏一体の関係になっている。
片方は「敵側」が故郷を求めてやってきて、もう一方は主人公側が故郷を求める。『キングゲイナー』において、「見たこともない」ヤーパンへの帰還を多くの人が望んでいるなど、あまりにも富野監督の心情とリンクしているのではないかと思ってしまう。
富野監督にとって故郷は、ユートピア=どこにもない場所、と同義であろうからだ。
そして重要なのは、故郷がない富野監督にとって、実際に故郷に辿り着けるかどうかは問題ではない、ということだ。
むしろ、故郷に戻ってからのドラマなど、描けないと自覚しているのかもしれない。
実際、『キングゲイナーエクソダスガイド』の中で、脚本の大河内一楼さんはこう言っている(83ページ)。
エクソダスの結末自体は、見せる必要がないと思いました。エクソダスというのは個人的に現状から「動く」ことが大事なんであって、どこかに「到達する」という結果が大事なわけではないからです。
この証言通り、大事なのは「故郷に辿り着くこと」ではなく、故郷を求めるエトランゼの心情であり、その行程に起こるドラマであり、そして「故郷が無い」富野監督自身の想いが作品に滲み出ている点である。
結末ではない。その過程や想いこそが、普遍性に繋がり、作品になる。
だから地球に帰還してきたはずのムーンレイスはあっさりと月に帰るし、エクソダスの物語は旅の途中で終りを告げる。
それでいい。結果は重要ではないのだ。
かのゲーテは人生を旅に例えて、こう言ったそうだ。
「人が旅をするのは到着するためではなく、旅行するためである」、と。
『∀ガンダム』や『キングゲイナー』の制作視点も、まさしく「到着すること」ではなく「旅行すること」に向けられているのだ。
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